『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』マルコ・ベロッキオ増田景子
[ cinema ]
「あなたはひとりでファシズムや国と戦おうとしている。」と、若き日のムッソリーニの愛人であるイーダは言われる。この映画はまぎれもなく第二次世界大戦に続いていく戦争の話であり、また、イーダというひとりの女性の戦いの話でもある。しかしながら、結局この映画の中で彼女はいったい何と戦っていたのだろうか。
ムッソリーニとイーダのふたりが愛し合っていた頃、彼女はファシズムに勝利していた。成り上がるために必要な演説を紡ぎだす口をくちづけで塞ぎ、封じられた言葉の代わりに肉体で交じりあっていた。目を合わせるだけで必要な会話は済ませられるかのように。ふたりの間には甘い愛の言葉のささやきすらない。しかし、彼女はムッソリーニに全財産を捧げることでその力を失ってしまう。くちづけをすることもできなければ、目を合わすことすらできない。かつて弁論を塞いだくちづけに使われていた口は、いまやファシストたちと同じように言葉を叫ぶことしかできない。だが、彼女の叫びが彼らの演説のように響き渡ることはない。彼女が叫んだとたん、誰かの手によって彼女の口は塞がれ、彼女の声は失われてしまう。連行され、隔離され、監視され、軟禁されても、それでも彼女は叫ぼうとし続けるのだ。
精神病院で看護婦たちに隙があれば、全速力で走り出し、建物2階分はあるであろう鉄格子によじ登って、どこに隠していたのかムッソリーニ、教皇、王などに宛てた幾通もの手紙を握りしめて、外にいる男子学生たちに声の限り叫ぶ。だが、返ってくるのは彼女を皮肉ったファシストたちの愛歌と嘲笑だけ。叫んでも彼女の声は誰にも届かず、委ねる先のない手紙は外に向かって投げ飛ばされるが、それすら残らず看護婦に拾われてしまう。唯一聞いてもらえる声は、精神科医のアドヴァイスによって行われる彼女自身を押し殺した演技で発せられる台詞だけ。その言葉も台詞でなくなってしまったとたん、ファシズムを前に彼女の声はことごとく塞がれてしまうのだ。
さらに彼女は距離だけでなく空間的にムッソリーニと引き離されてしまう。ベロッキオによってつくられた画面の中で生きるイーダと1920年代の記録映像の中で生きるムッソリーニ。交わりたくても交わることのない2種類の画面。その間には大衆とメディアが古代ギリシャ劇のコロスとして介在し、彼女を飲み込んでいこうとする。
一夜をともにすごしたムッソリーニとイーダが夜明けに突如聞いた声はまさしくコロスである。誰かともわかれないふたりの男が、車に乗って、ビラを飛ばしながら、開戦だと繰り返し叫ぶ。そして、それに触発されたように、音楽とテロップと音声で、さらに畳み掛けるように開戦を宣告する。そのような手法はこの映画の中で、ファシズムが力を持つにつれて、頻繁に使われるようになる。もちろん、ニュース映画を見ながら右手を挙げ歌いだす歌も、精神病院の鉄格子にしがみつく彼女にむかって歌われた歌も、ラジオから流れる放送の声もすべてコロスと化する。そして、本来ならば俳優とは別次元に存在しているはずのコロスが、俳優であるイーダを飲みこもうと襲いかかる。彼女が飲み込まれてしまえば、彼女の存在だけでなく、彼女の息子や、存在していた記憶すらも消されてしまうのだ。それを知ってか、彼女は形のみえない巨大化していくコロスのなかで、ひとり違う歌をうたい続ける。
叫ぶ彼女の瞳は常に正面にみえる誰かを見据え続けていた。その瞳に映るものはいったいなんだったのだろうか。ムッソリーニだったのだろうか。ファシストたちだったのだろうか。それともコロスである大衆だったのだろうか。もしかしたら、このような映画がつくられた時点で記憶に残ったという側面において、彼女の戦いは勝利なのかもしれないが、彼女の瞳の先がわからぬままで勝利を語ることはできない。
現在、地震や原発問題でさまざまなコロスが鳴り響く世の中に私たちは生きている。そしてコロスに対して声をあげている人もいれば、コロスに飲み込まれている人もいる。彼女の戦いを私たちは人ごととして、歴史として片づけてもいいのだろうか。