『ゴーストライター』ロマン・ポランスキー梅本洋一
[ book , cinema ]
すでにこのフィルムについてはいろいろなことが語られている。ヒッチコック的な作品、堂々とした古典的な作品、流浪を余儀なくされたポランスキーの似姿……どれも当たっている。冒頭の豪雨の中、フェリーが港に着くシーンから、無駄なショットなどひとつもないし、見事な編集で見る者の関心を惹き付けて放さない。ヒッチコック的な分類に従えば、「巻き込まれ型」の物語。前任者の死によってイギリス前首相の二人目のゴーストライターになってしまった男──最後まで氏名は明かされない、I’m your ghostと自己紹介する男にもちろん氏名などない──が、偶然垣間見た「謎」の一片に惹き付けられ、それに向かって突き進んでいく。
だが、このフィルムが優れているのは、そうしたナラティヴの面ばかりではない。何も見えないのだ。豪雨に煙って地形など見えないように、このフィルムの映像には、遠くまで見渡せるような澄み切った映像などひとつもない。晴れ間はまったく見えない。ロンドン、ニューヨーク、大西洋の孤島……確かに地理的な呼称は存在するが、ロンドンにしたところで、赤いダブルデッカーのバスが示されるだけで、ここはロンドンのどこなのかまったく判らない。そして孤島。いったいどこに存在するのか? このフィルムの豪雨の中の風景のように、深い雲に覆われた曇天の下にあるランドスケープは、地図を垣間見せてもくれない。
まったく視覚を欠いた風景の中で、「謎」の一端にどのように導かれていくのか? グーグルの検索によって、世界の「謎」の周囲をめぐっているいくつかの記憶が召還され、「ゴースト」(ユアン・マクレガー、好演!)は、その記憶の糸をたぐり寄せることで物語が編み上げられていく。そして、この見えないランドスケープの中で、いったいどのようにターゲットに向かって彼は歩んでいくのか?
カーナビだ。「前方50メートルで右折してください」。「2番目の信号を左折です」。ドライヴィング・マップを使用することで、世界の全体の中で、自らの位置を意識しながら運転するドライヴァーと、カーナビに従って運転するドライヴァーでは、運転するときの意識がまるで異なっている。カーナビは、確かにドライヴァーを目的地に確実に導くのだが、目的地と現在地の地図上での関係性を示してくれない。一瞬、一瞬のドライヴァーの行動を支配しながら、確実に目的地に導くからだ。「ゴースト」も、文字通りカーナビに従って目的地に導かれている。だが、だからとって、彼に世界の全体の物語を解読することなどできはしない。切れ切れの文章を接合し、それが、世界の中で確実な意味を形成するまで、彼には、眼前の世界に広がっている諸々の行動の関係性が理解できないのだ。まるで、豪雨の中の見えない世界のように。