『5 windows』瀬田なつき松井宏
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Stay Gold!
横浜の京急沿い、つまり大岡川沿いの黄金町界隈の屋外や屋内の各所に4つの小さなスクリーンが設置されている。それぞれで、瀬田なつき監督が撮った約5分の異なる短編がループ上映されていて、観客はまちを歩きながらそれぞれをめぐり見てゆく。そして最後は映画館ジャック&ベティにて、25分ほどのまとめヴァージョン(各5分のものを単につなげただけではなく、新たなショットもたくさん加えてひとつの物語を見せてくれる再編集ヴァージョン)を見る。ドリフターズ・インターナショナルという団体が主催している「港のスペクタクル」の一環で、「漂流する映画館」と名付けられた企画。あ、へえ、別によくありそうな企画だねと漏らしつつ、でも意外とこういうの実際にはなかったなあ、というか、なんだこれ、すごく楽しいな、おい!となってしまう、そんな感じの『5 windows』。
黄金町には失われたものがある。よく知られているように、かつてここは売春宿が連なる「青線」地帯だった。だが京急や横浜市による排除運動、やがては2000年代に入り、かつてユーゴで行われた「民族浄化」と見紛うばかりの単語「浄化」をオフィシャルに冠した組織や運動(「初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会」)によって、「アートのまちへ!」という標語のもと、それらの売春宿は見かけ上ほとんど消え、アーティストたちの住処と空き家が目立つまちへと、この黄金町はさまがわりしてきた。失われたのではなく失わされたのかもしれないが、とにかくこのまちでは、具体的に何かが消えた。
最終的に瀬田監督が『5 windows』で扱うのは、この「何かが消えた」という感覚だ。でも彼女が本当にそれを感じさせてくれるのは、最後にジャック&ベティで見せる25分ヴァージョンにおいて。それ以前、まちを歩きながら4つのスクリーンをめぐる観客が味わうのは、何はともあれ、いまぼくたちが立つこのまちはちゃんと存在しているんだな、という感覚。スクリーンで見た風景を、すぐにそのまま歩いて、眺め、五感で認識する。昼と夜の違い、気温の違い(劇中は8月末の日中だけど、いまは10月、夜はとても涼しい)。そうした違いは、逆に、このまちが存在してきた、存在している、そして存在していくのだろう、ということの証拠となる。
でもやはり、ここでは何かが消えたのだ。だから、最後の25分の作品はそれに関わらざるをえない。瀬田監督お得意の、誰かと誰かがよくわからないけど出会ったりすれ違ったりして一緒にそこにいちゃう、という設定の、4人の男女。そこで描かれるのは、いまと過去がつながったり、いまと夢がつながったり、過去と夢がつながったり、反復されたり……という世界。もしかして彼女は、彼は、もうすでに死んでしまっているのでは?とも見えるその世界。瀬田監督はこの作品で喪の作業を行っているのだろうか?そうとも言えるのだろう。でもそれはけっして後ろ向きの作業ではない。喪を行うのは、消えてしまった何かを慈しむためでも、それに溜め息をつくためでもない。かけがえのなさ、というものを感じさせるためなのだ。
たとえば、男の子がいる。自転車に乗っていた彼は、こぐのをやめ、ふとキャメラを見つめる。すると、そこに女の子がいる。彼女は夢か過去に存在するようなのだが(やはり彼女は死んでしまったとしか思えない!)、とにかく彼女もまた、ふとキャメラを見つめる。キャメラ目線のふたりが、ふたつのショットでつなげられる。だがもちろん、時空の異なる世界にいるふたりは、一緒のフレームに収まることはない。そう、ふたりはともに、キャメラを、つまりは観客であるわたしたちを見つめることで、かろうじてふたりの関係性をつなぎとめているのだ。あるいは言い換えれば、そのときキャメラこそが、いや、わたしたちこそが、ふたりの関係性をかろうじてつなぎとめている。そこに生まれる、かけがえのなさ。そのかけがえのなさとは、だから登場人物たちのものであり、作品のものであると同時に、やはりわたしたちのものでもある。そしてその感覚は、過去だけにかかわるのではなく、過去をも含むいまと、徹底的にかかわっている。
どうやら、でも映画ってそもそもそういうものだよね、という話になりかねないのだが、まったくそのとおりで、というのも瀬田監督は今回まちなかの4つのスクリーンそれぞれにおいて、まさに映画の根源的な要素ともいえるものを取り扱ってみせるのだ。運動(自転車)、水撒き(リュミエール兄弟の1895年作『水をかけられた散水夫』はもちろん、初期映画のバーレスク作品で水撒きは重要な要素となった)、音(その女の子はトタン板を蹴ってみたり、傘で鉄柵をたたいたりして、ひたすら音を生み出す存在となる)、そして写真映像(その女の子はスチールカメラを持って黄金町にやって来る)。
そう、映画の根源をまさぐってみること。まるで、すでに消えてしまったものであるかのように、危なっかしい手つきでもういちどそれに触れ、感触を確かめてみること。「映画を再生させる」といったおおげさをかます必要はなく、とにかくその感触を確かめ、そしてそれを音と映像にしてみること。この黄金町というまちにかんしても同じだ。浄化とか再生とかではなく、消えてしまった何かと、いまここにある何かの手触りを、感触を、とにかくもういちど確かめてみること。そこに感じられる、かけがえのなさ。『5 windows』と、そして『5 window』を体験するわたしたちの試みとは、そういうものなのだろう。
最後に、これから『5 windows』を体験する方にいくつか。まず、4つのスクリーンをめぐるのは、順番なんてどうでもいいので、きちんと時間をかけて、まちを歩いた方がいいです。まさに登場人物たちがいた場所をきちんと確かめて、そこに立って、彼らが何を見て聴いていたのかを想像してみると、とても不思議な感じになれる。途中、ある会場では係員が「次の会場にはこちらから行ってください」と言うこともあるが、そんなのは無視。はいはい、と応えてふらふら大岡川沿いを歩いてみるとよい。そしたらきっと、文字通り「Stay Gold」と——コッポラが『アウトサイダー』でスティービー・ワンダーに歌わせた曲だ——黄金町の夜につぶやけるはず。
港のスペクタクル 建築×映画×音楽×アートプログラム Cinema de Nomad「漂流する映画館」にて、2011年10月1日 (土) - 7日 (金)まで上映