『MISSING』佐藤央高木佑介
[ cinema ]
「息子は自分のせいで失踪してしまった」と負い目を感じている母親であるとか、「悪い行いをすれば必ず悪いことが起こるのよ!」と物事の因果を熱弁する女であるとか、「嘘」ばかり言う少年であるとか、とにかくそのような人物たちのやり取りが1時間にも満たない慎ましい尺のなかで描かれているこの『MISSING』。まず何よりこの映画を見て驚かされるのは、各々が独自の価値観を持って行動しているように見える上記のような人物たちによる、いつまでも決着がつかなそうな会話だ。「決着がつかない」というのは、言葉によって相手を論破する瞬間が訪れるとか、お互いが了解し合える答えに辿りつくとか、そういった映画そのものが次第に落ち着いていくような(とりあえずの)結論に達することがないという意味でもあるが、それだけではない。そもそも、彼らはなぜ互いに言葉を発し、会話を持続させていくのか。この映画を見ていると、ふと「会話」という行為そのものが不可思議なものに思えてくるのだ。強いて言えば「自分のため」にしか因果の存在を説いていない女。無用な「嘘」をつき続ける少年。さっさと追い出してしまえばいいものを、自分の家に居座る彼らの言葉に耳を傾ける母親……。たしかに彼らは、自分の主張や考えをお互いに発しているのだが、その「会話」がかけ離れた地平に立った人物のあいだでとり交わされたものであるかのように帰結や和解を向かえることなく、ひたすらすれ違い続けているとでも言うのだろうか。たとえば『12人の怒れる男』のように、ある問題をめぐって辛辣な会話を重ねるごとに映画自体のボルテージも上がっていくようないわゆる会話劇は数多くあるだろうが、この『MISSING』では会話の目的や問題意識がどこか覆い隠され、映画で取り交わされる「会話」という行為そのものが何か抽象的なものに感じられる瞬間が捉えられているように思えるのである。「会話劇」というより、「会話」ないしは「言葉」をめぐる劇。実際、物語の途中で不意に立ち現れる、「親子のふり」をした会話であったり、言葉の代わりに「笛」の音で返答するシーンであったりと、奇異なやり取りが提示される瞬間がこの映画には多々あり、それが本作にどこか異様な様相を与えているように思える。
それと同時に、この映画が見せる親和力ある映像の連なりはいったいどうだ。冒頭の神戸の港を捉えた一連の映像の連なりと言い、台詞がまったくないまま示される息子の失踪までの経緯と言い、人物同士の会話が取り交わされる際に捉えている微細な表情や身振りと言い、語られている物語の枠を越えた、何層にもわたる映画そのものの厚みと説得力がこの『MISSING』にはたしかにあるのだ。神戸の街に点在するごく限られた場所だけを映しているにも関わらず、家から港までのおおよその距離や方角が、一連の流れのなかで何となく判ってきてしまうのはいったい何故だろうか。理知的な演出によって紡がれていく「映像」や「会話」。互いに示し合わせたわけでもないのに、バラバラに行動をしていた登場人物たちがどういうわけか港の浜辺に集まってしまっているこの映画のラスト・シーンのように、ひとつひとつの断片にすぎなかったただの映像が、後に連なる映像を喚起していくと同時に、後から来る映像が不意に全体そのものを書き変えていくようなダイナミズムを、この映画は晴れやかに獲得している。