『サウダーヂ』富田克也増田景子
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いま巷の映画ファンで一番の話題作はまちがいなく空族の『サウダーヂ』だろう。あらかたの映画雑誌、新聞各社、テレビやラジオ番組で取り上げられ、多くの人がこの映画に関して発言を残している。そのせいもあってか、ミニシアターの不況が嘆かれているにもかかわらず、唯一の上映館であるユーロスペースには『サウダーヂ』を見ようと連日大勢の人が押しかけている。
でも、一体『サウダーヂ』のなにがすごいのか。自分たちで資金をあつめながら半年かけて製作されたことなのか、移民問題といったまだ浮き彫りになっていない社会的問題を扱ったことなのか……。いくつかの『サウダーヂ』評で見受けられる優等生の解答のような言葉はなんだか彼らの映画には似つかわしくなく、歯がゆい感じがしてしまう。何かが違うんだ。
いくつかのインタヴューで言及されていることなのだが、『サウダーヂ』では甲府で実際に起きている様々な問題が挙げられているが、そこに対して別に解答のようなものを提示しているわけではない。仕事がなくて帰国を迫られているブラジル人に救いの手が差し伸べられることもなければ、クスリに手を染めていく男たちに警鐘を鳴らすこともしない。それらは列挙されているだけで、互いに交わることもほとんどない。唯一、猛(田我流)がブラジル人にHIPHOP対決を申し込んだり、土方のおっさんたちと飲みに行ったりしているが、どれも肩すかしにあって空回りしている。
そう、この映画、なにも起こっていない。なにか起こるであろう因子が衝突を起こすことなく、それぞれ浮遊しているだけで終わっているのだ。
だからなのか、「だべっている」シーンがやたら多い。休憩時間に一服しながら、誰かの部屋に溜まりながら、店番中にエロ本をめくりながら、ご飯の準備をしながら……。仲間内で手すきになった時にするとりとめのない、数分後には話しの詳細を忘れてしまうような他愛もないやつだ。もちろんそこには目的のようなものもなければ、落ちもない。あえていうなら時間を潰すことが目的だろう。それを対話や会話というと少し仰々しすぎるので、あえて田舎の不良っぽく「だべり」と言ってみる。
わたしたち観客は147分という一般的には長めの上映時間中ずっと、そこに出てくる登場人物たちの様々なだべりをひたすら見ることになる。でも、おもしろくて見続けてしまう。そこに『サウダーヂ』のすごさがある。
それにしても、なぜ生産性のないだべりを見ているだけなのに面白いと思ってしまうのだろう。ひとつの理由は映画の中でだべりがだべりとして存在しているからだ。『サウダーヂ』のだべっている場面は、撮影監督・高野貴子の手で、誰に視点を定めることなくフラットに引きの画で撮られている。それをだらだらと映すことで、スクリーンのあちら側にもこちら側にも無為な時間が流れるのだ。もしここで切り返しをしようものならば、だべりも立派な対話になってしまうが、そんなことはしない。映り映えしない景色のもとで彼らはひたすらだべり続けているのだ。
なにか起こってもいいはずなのに、なにも起こらないし、発展することも広がることもない。時間を持て余し、何か始めるわけでも,改善することもなく,ただ手を動かし口を動かして潰していく。そんな彼らの後ろには救いようのない景色。ふと、書きながらだべっている画こそ『サウダーヂ』という映画の縮図なのかもしれないと思った。