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November 23, 2011

『独り者の山』ユー・グァンイー
高木佑介

[ cinema , cinema ]

 いや、数時間前に見た本作に対する興奮がまったく冷めやらぬままにこの文章を書き始めたものの、絶対にこの言葉だけは書くまいとさっきまで固く心に誓っていた常套句を、ここで早くもあっさりと吐きだしてさっさと楽になってしまいたいと思う。やはりこの監督は、ほかの誰よりも「映画」から祝福を受けている作家だ、と。なんだ、そんなことなら3年ほど前のフィルメックスで上映された『サバイバル・ソング』を見たときから知っていたよ、とここで思う方もいるかもしれない。さらには、『最後の木こりたち』(こっちは恥ずかしながら未見)で彼を「発見」したときから俺はとっくに判っていたよ、という方もおられるかもしれない。とにかく、中国黒竜江省の山岳地帯で生きる人々にカメラを向け続けてきたこの映画監督は、「中国にはまずジャ・ジャンクーがいて、それからワン・ビンがいて……」と私たちが思い描いていた中国現代「映画史」を不意に揺るがすかのような存在感でもって、静かに屹立していると思うのだ。
 と、ここでかなり大袈裟に書いてしまうと誤解を招きかねないので補足しておくと、この監督はいわゆる「映画」なるものを作るための技術的作法であるとか、「映画史」なるものへの目配せの意識や野心といったものなどは、そもそも一切持ち合わせていない。そしてそれは、実際に彼の作品を見ればすぐにわかるはずだ。少なくとも、10数年間もある女性に想いを寄せる46歳のオジサンを追ったこの『独り者の山』を見ているとすぐに気付くように、まず、カメラのレンズが汚れまくっている。水滴やらホコリやらゴミやらで、レンズに何か付着していないことのほうが珍しい。その理由は現実的に考えれば、彼が撮影をしている場所が吹雪やら雷雨やらが吹き荒れるかなり過酷で劣悪な現場であるうえ、機材も安いものだから、ということになるのだろうけれど、どうもそれだけではないように思われる。そもそも彼はそんな些細なことを「問題」として端から認識していないかのように、ひたすら人々やその土地にカメラを向け続けているように思えるのだ。君たちが映ってさえいればそれでオッケー、みたいな。それだけに、自身の「スタイル」や「映画」というものを明確に意識して作品を作っているように思えるジャ・ジャンクーやワン・ビンとはまったく異なる「眼」をこのユー・グァンイーは持ち得ているように思う。限定的な地域で暮らす人々の恋愛や性の営みに対する「好奇」の視線であることを越えて、誠実に彼らの存在を「見つめて」いくことのできる眼差し(というよか世界に対する真摯な態度)をこの監督は持ち得ているのだ。だから、この映画を見ていると自然とあの「地域的なものに留まれば留まるほど……」というジャン・ルノワールの言葉が頭をよぎってしまう。それだけではない。山に降り積もる雪の質感、空気の冷たさ、きこりたちが運ぶ丸太の重さ、そして家に立ちこめる煙の煙たさや火の暖かさといった、世界の存在感そのものが、およそヘタクソにしか見えないピンボケだらけの手持ちカメラの映像から溢れだしてくるのだ。いったい何なんだろうね、この素晴らしさは。
 他にも、カメラ越しから監督が人々に話かける場面の会話がなぜか異様に良いであるとか、道を散歩する牛がいきなり交尾しようとする瞬間であるとか、忘れ難い瞬間がこの映画には溢れているのだけれど、散らかった文体のままここまで書いてきてしまったので、最後にこれだけ書いて終わりにしようと思う。それは、この映画を見て不意に思いだしてしまった監督が、小津安二郎だったということ。別にローアングルが多いからというわけではなく、それは単純に、「誰それがあそこの嫁をもらった」だとか、「ところでお前はいつ結婚するんだ」とかといった会話ばかりが行われているせいである。実際、食卓を囲んで「お前が好きな女はな、実はな……」なんて会話をしている友人同士の姿は、全然似てないけど、まるで『秋日和』の佐分利信、中村伸郎、北竜二のトリオを見ているようなのだ。だが、やはりそれ以上に、ここに映っている土地と人々が刻む会話や生活のリズム、存在感といったものが、私たちを自然に映画との「見る/見られる」の切り返しの関係へと引きこむ力をもっているからふと小津を思い出してしまうのだと思うのだけれど、明日も早くからの上映なのでそれはまた今度考えることにしよう。


第12回 東京フィルメックス 2011年11月19日(土) ~11月27日(日)有楽町朝日ホールほかで開催中!

『独り者の山』は11/24(木)15:00より有楽町朝日ホールでの上映あり