『CUT』アミール・ナデリ隈元博樹
[ cinema ]
鎌倉にある黒澤明、池上にある溝口健二、そして北鎌倉にある小津安二郎の3つの墓場。秀二(西島秀俊)が、黒澤の墓石の前でただ静かに「先生」とつぶやく。溝口の墓石の前では記念碑に彫られた『雨月物語』の文字を自らの指でなで合わせる。そして小津の墓石の前では「無」と彫られた一点の文字を見据え、静かに両手を合わせる。
このフィルムには、たくさんの墓場が登場する。秀二の兄の慎吾が殺されたヤクザのシマの倉庫の便所も墓場のひとつだ。兄の赤黒い血痕がいまだ残るこの薄汚い墓場で、秀二は「殴られ屋」となる。彼は映画製作に費やした自らの借金を返済していくことと同時に、娯楽と芸術が成立しにくくなってしまった現代の映画状況への怒りをも噴出させることとなるのだ。ヤクザやサラリーマンたちから繰り出されたそれぞれの拳が、くしゃくしゃでバラバラに束ねられた紙幣へと変わり、秀二の顔面や鳩尾を即座に襲う。秀二に反撃の余地はないものの、彼の口から発せられる過去の「シネフィル東京」のプログラムと取り上げられた映画の製作年数、それぞれの回の観客動員数がその怒りの反動をあたかも代弁しているかのようだ。
その秀二が定期的に催している「シネフィル東京」も、都内の自宅マンションに隣接された屋上の一角、つまり墓場である。「今夜は心地よい風が吹いています。きっと今日の映画たちのいい効果音となってくれるでしょう」と、彼は清水宏とバスター・キートンの二本立てを前に30人弱の来客へひと笑いをかます。上映は自ら映写機でフィルムを回し、画面形式に合わせた壁掛けのホワイトボードへと投影するしくみだ。都市の片隅に存在するこうした自主上映会という形態は、まるで現代の映画状況を象徴としたある種の墓場であり、そこに集うシネフィルという存在すらも、もはやその墓場に寄り添う屍なのかもしれない。
しかし、墓場はあらゆるものを葬り去るためだけのネガティブな場所ではないはずだ。アミール・ナデリの映す墓場とは、ただその死を弔うためだけにあるのではなく、むしろその死の断片をつなぎ合わせ、更新させていく可能性を秘めた場所なのだ。黒澤、溝口、小津の墓場を訪れ、「先生」といった言葉や、指をなで合わせたり一点を見据えるといった秀二の行為が、墓場を前にして重なり合ったとき、目の前には数々の映画的記憶が浮遊する。便所という墓場は、彼の兄への弔いだけに用意されたものではなく、あるとき100発のパンチと引き換えに100本のフィルム(ナデリの生涯ベスト100)を僕たちに教えてくれさえする。さらに秀二は「シネフィル東京」という墓場を絶やすことなく、満身創痍のなかでも上映を続けていく。いつものように拡声器を片手に携え、芸術と娯楽の混在したかつての映画の時代を取り戻そうと街頭演説に奔走することもやめようとしないのだ。時おり秀二の顔面や上半身にジョン・フォードの『捜索者』、小林正樹の『怪談』、ロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』などが重なる。つまりナデリは墓場によって映画的記憶の縫合をくまなく実践し、それらを重ね合わせることで生じる新たな映画の行方を、秀二やこのフィルムを観ている僕たちに託しているのではないだろうか。
「はい用意……スタート!」という秀二の声だけがラストに鳴り響く。彼は返済したはずの借金を再び借金して映画を撮り続けている。彼が何を撮っているのか僕たちにはわからない。ただひとつ信じたいのは、いま撮ろうとしているショットは、はたしてどこで「カット!」がかかり、どんな新しい記憶の縫合が実践されうるのだろうか、ということだ。その彼とは秀二でもあり、ナデリ自身のことでもある。