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December 7, 2011

『トゥー・ラバーズ』ジェームズ・グレイ
高木佑介

[ DVD , cinema ]

 ジェームズ・グレイの新作(と言っても、製作は2008年)が、先日紹介したリチャード・リンクレイターの新作と同じくDVDスルーされている。シネコンではハリウッド大作映画だけが画一的に公開されている一方で、こういった「多様」な海外作品が劇場公開すらされない事実には頭を抱えるばかりだ。たとえば、シネコンと大手配給会社が結託した「デジタル上映システム」への完全移行がこのまま推し進められていくと、弊害が巡り巡った挙げ句に、「ハリウッド大作以外の映画作家の新作を見るのは2、3年後にDVDスルーで」なんてことがもっと当たり前になるのかもしれない。リリース初日に皆でTSUTAYAに走ってレンタル!みたいな。こうも息苦しいと、ヤン・イクチュンみたいに「シバラマ!」と叫び散らしたくなってくるのが正直なところである。

 そして、今作でジェームズ・グレイが切り取るこの世界も決して明るいものではない。多くの移民たちが住むニューヨークのブライトンで両親と暮らしながら、父親の経営するクリーニング店を手伝っている主人公のレナード(ホアキン・フェニックス)は、冒頭から海に飛び込んで自殺を図ろうとする。むかし婚約者に捨てられたショックから鬱病を患っているからだ。だが、この映画がとらえる冬の重々しい光と寒さによってくすんだ風景を目にすれば、彼ならずとも自然と気が滅入ってくることだろう。ニューヨークで撮った「恋愛映画」と言っても、数多くのドラマを生んできたsophisticatedな場所や出会いが軽やかに映されるわけでは決してなく、むしろ、この陰鬱とした街や「家族」的なつながり、あるいは自営業のクリーニング店の経営を任せられようとしている重苦しい現状のすべてから、彼は逃れたいと思っているようにすら感じられる。家族同士の付き合いで知り合ったサンドラ(ヴィネッサ・ショウ)が自分に好意を抱いていることを知っても、表向きは明るく振る舞いはするが、やはりその奥には暗い何かがくすぶっているのがホアキン・フェニックスの表情や画面に張りつめた空気だけで判ってしまう。たしかに、『裏切り者』や『アンダーカヴァー』と比べてみても、誰にでも判る「見せ場」があるような映画と言うより、男と女のごく小さな物語を慎ましく語っているだけの作品のように見えるかもしれない(何せベースとなっているのがドストエフスキーの『白夜』だから。最後に女に振られる、ただそれだけの話)。だがそれだけに、今作で映画をたしかに持続させている俳優たちの存在感や演出のディテールは、ジェームズ・グレイ作品のなかでもひときわ際立っているように思える。同じアパートで出会ったミシェル(グウィネス・パルトロー)の部屋と、レナードの部屋を隔てる「窓」の使い方ひとつ取ってみても、これだけ映画の欲望と視覚的な面白さが昇華された映画的瞬間を見るのは、やはり『裏窓』(54)くらいしか思いつかないはずだ。
 父親に部屋を追い出されたミシェルにレナードが偶然出会うシーンや、彼がクリーニング店で働いているという設定は、すでに本作以前の作品でも指摘されてはいるが、そのまま『若者のすべて』(60)からの引用だろう(そういえばヴィスコンティも『白夜』を撮っていた!)。とはいえ、単なる引用に留まっていないのがすごいところだ。言うまでもなく、ヴィスコンティのあのフィルムも、映画の楽天性や絢爛豪華さというよりかは、息苦しさや重々しさの果てにあるかもしれない何かを捉えようとした緊張の張りつめる映画だった。あのフィルムこそが都市の片隅で生きる人々をとらえた現代的な映画の原点なのだとあえて言ってみることが、ジェームズ・グレイが見つめるこの世界に対しての、ひとつの回答/意志表明であるのかもしれない。
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