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December 9, 2011

『ウィンターズ・ボーン』デブラ・グラニック
松井宏

[ cinema ]

 ファーストカット。ああ、16ミリ!と思い、それだけで画面に釘付けになってしまったのだが、エンドクレジットで「レッド・ワンで撮影」とあった。レッドというのはこんな画面まで可能なのか。しかしいったいどうやって、どんなプロセスであんな映像になるのか。正直よくわからないので、どなたかわかる方がいたら教えてほしいです。
 バーバラ・ローデンの『Wanda』(70)も、ダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』(99)も16ミリでの撮影だった。どうやら「ひとりでたたかう女の子(女性)」なる肖像には16ミリの質感がぴったりのようだ。なぜだ? わからない。
『ウィンターズ・ボーン』に登場するのはミズーリの山地に暮らすヒルビリーたちであり、またそのなかのひとりの少女。リーという名の17歳の少女は、精神を病んだ母と、幼い弟と妹の面倒をみながら暮らしている。父親は覚せい剤の密造で逮捕されたのだが、保釈されてすぐ逃走。父が法廷に現れなければ保釈金のカタに家と土地をとられてしまうことが判明。リーはひとり、父親を捜しはじめる。
 けれど『ウィンターズ・ボーン』はワンダやロゼッタのような、いわゆる職探し映画でもないし、貧困を前面に出すようなタイプの映画でもない。この作品の鋳型は西部劇だ。言い換えるなら、神話的な何かだ。父親を捜すリーが訪ねる人々が、みな御丁寧に「わたしは、おれは、おまえの父親とこうこう血がつながっていて……」と口上を述べてくれるように、彼ら彼女らはみな何かしら血がつながっている。南部らしいといえば南部らしい、でもそれだけでは収まらないこの恐怖。あるいは、誰しもが父であるかもしれない可能性を持つという、この心臓の凍るような恐ろしさ。ではそんなとき、父捜しとはいったいどんなものになるのか?
 実のところ、ある段階から父捜しは父の死体(骨)捜しに変容する。今度は警察に彼が死んだ証拠を見せないといけなくなったのだ。父の兄であるティアドロップと一緒に骨を捜すリー。とても素晴らしいシーンがある。夜中、ティアドロップはリーを墓場に連れていく。殺されて埋められたかもしれない、といって暗闇のなか懐中電灯とスコップ手に、墓場をうろつく。どう考えたって見つかるはずがない。それでも静謐な狂気(ティアドロップは白粉常習者)でもって、地面を確かめつづけるティアドロップ。リーもそれが無駄だとわかっている。観客のわたしたちだってそうだ。このどうしようもない絶望感。そしてふと、ふたりは斜面に横並びで座る。「ヒー・イズント・エニウェア」と呟くリー。「サムウェア」と応えるティアドロップ。
 エニウェアとサムウェア。ふたつのあいだのこの深淵。「父」はいないが「兄弟」はいる、ということ以上におそらく、ふたりの見つめる世界は異なる。あるいはこう言ってもいいだろう。ティアドロップは神話の登場人物であり、リーは神話のなかに迷い込んでしまった人物だと。ティアドロップはほとんど呪われているかのごとく、神話を最後まで生きねばならない(ラストの彼を見れば確信できる)。そんな彼の導きによってリーは神話に迷い込み、と同時に、彼のおかげで神話の永久的な悪循環からすんでのところで逃れられる。
 とにもかくにもリーはエニウェアからサムウェアへ、そしてエニウェアとサムウェアの同時性を知るだろう。いないんだけどいる。どこにもいないと同時にどこかにいる。それが神話というものだ。最終的に冷たい川のなかで彼女が手にした骨こそ、まさにそれだ。そしてまた、よくわからないけど確実にある何かとは、この映画にみなぎる「寒さ」のことでもある。「ウィンターズ・ボーン」というタイトルの正確な意味はわからないが、骨に突き刺さるこの寒さこそが作品を支配し、そしてこの物語を導いているのだろう。
 しかしティアドロップという美しい名を持つ人物(目尻にある涙粒のタトゥー!おそらく刑務所で入れたのだろう)。それを演じるジョン・ホークスは『君とボクの虹色の世界』というくそヒドイ映画でしか記憶になかったが、今作では本当にかっこいい。ガレージのなかでリンチされているリーを助けに来るティアドロップ。ガレージのシャッターが自動で上がると、彼は武器も持たずに、長い腕をダラリ垂らしてそこに立っている。胸が熱くならずにいられるかい。