『ラブ・アゲイン』グレン・フィカーラ&ジョン・レクア松井宏
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「長年連れ添った妻に突然離婚を告げられた中年男スティーヴ・カレルがなんとか彼女を取り戻そうとがんばる」。そんなあらすじを読んだだけでわかるけど、これは典型的なリマリッジ・コメディである。つまり冒頭でさっそく駄目になったカップルが以降、どのように再生するかが問題となる。「再生するかどうか」じゃなくて「どのように」こそが、このジャンルの焦点だ。
その点『ラブ・アゲイン』は見事。妻エミリー(ジュリアン・ムーア)に別れを告げられ一人暮らしを開始したキャル(スティーヴ・カレル)は、ライアン・ゴズリング演じるジェイコブという超絶プレイボーイに、モテ男になるための教育を受けはじめる。良くある手といえばそうだが、実のところここでキャルが受けているのは、モテ教育というよりもむしろロマンチックコメディ教育とでも呼ぶべきものだ。いかにしてわたしはロマンチックコメディの登場人物になりえるのか? キャルは徹底したアイロニーをヨロイとしながら、しかし自分はやはり妻を愛しており、そのためには外見からカッコ良くなるのが必要なんだと(少なくともこのジャンルの登場人物になるにはそれが必要なんだと)確信する。同じようにこの作品自体、このジャンルに対して徹底したアイロニーで臨みつつ、ゆえに生まれる恐るべき現実主義とでも呼べるものを自らの衣服にする。「わお、なんてクリシェな雨の降り方だ」と叫ぶキャルを捉えるカットに、でもどうしようもなく感動してしまうわたしたち。この作品のひとつ大きな魅力だ。
いや、じゃあどうやってカップルは再生するのか? スタンリー・カヴェルが『幸福の追求』で書くように、ひとつの手段として、ふたりが「子供」になるというのがある。つまりふたりで無垢を獲得するのだ。その通り『ラブ・アゲイン』は、ふたりを「子供」に仕立てようとする。一度目は息子の中学校での、先生との両親面談(彼らは中学生よろしく、教室のイスにちょっこり座って先生に向き合う)。そして二度目が、ついにふたりが仲直りするはずの決定的シーン。キャルはおママごとよろしく庭に風車を作ったりして、息子たちと一緒にエミリーとの仲直りの場を、自宅の庭に設ける。エミリーを目隠しして、子供じみた雰囲気のなか、彼はふたりが出会った中学時代のシーンを反復しようとする。原題は「Crazy, Stupid, Love.」なのだが、まさにどんどん幼児化していく先にしかラブはないわけだ。彼らは闘いの果て、ついに無垢を獲得するのだろうか。
と、思われた瞬間、ところが。それは失敗に終わる。そして、実はそこからがこの作品のもっともサスペンスフルな時間というか、もしかしたら本質、なのかもしれない時間がグっと現れてくる。
その庭で起こるのは文字通り家族パーティであり、そこでは、それまで紡がれた複数の糸が一挙に合流し、さまざまな事実が明らかになる。ジェイコブズが心底惚れてしまった女性がキャルの娘だった、キャルの息子ロビーの憧れジェシカが実はキャルに惚れていた、等々。恐るべきことに、その明らかになった事実によって、もはやどうしようもなく修復不可能な亀裂が各人物間に生まれてしまうのだ。おいおい、いったいどうするんだ、こんなになったらどうしたって彼らの関係は修復できないだろう……。絶望、とでも言いたくなるような感覚(ほんとに心臓がバクバクしてしまった)。あぁ……。
実際はその後、カップルは中学時代を再度、さらに激烈な仕方で反復しようとして、そしてそれに成功し、作品が終わる。しかしどうもそれよりも、やばい、どうしようもないぞ、作品自体が壊れるぞ……、という恐怖とも絶望ともつかぬ感情をもたらすあの「失敗」こそに、なにかとても大事なことが潜んでいるのではないか。もちろん近ごろのロマンチックコメディの諸作は、とにかく物語の終盤にスペクタキュレールな何かを、つまり過度な悲劇を用意して観客の注意を惹こうとするのがつねではある(結果リミットを越えて作品が登場人物を貶めてしまうのだ)。しかし『ラブ・アゲイン』のその悲劇は、なにかもっとこう、強い意志みたいなものでもって設けられているような気がするし、登場人物たちもそれによってもっともっと豊かになっている。
おそらくそこで『ラブ・アゲイン』は、なにかを終わらせようとしたにちがいない。いや言い方を変えよう。とにかくこの作品はここで「ゲームを変えるのだ」と舵を切った。『マネーボール』のブラッド・ピットの究極の目的がゲームに勝つことではなく「ゲーム自体を変えること」だったみたいに。実際ジェイコブズの彼女(=キャルの娘)を、ジェイコブズは「シー・イズ・ザ・ゲームチェンジャー」(それまでプレイボーイだった自分を根本的に変えてくれたから)と呼ぶ。そう、ゲームチェンジャーである彼女こそが、まさしくゲームを変えてしまう。
そのときロマンチックコメディは一種の「家族もの」へと変容するだろう。ジェームズ・L・ブルックスの諸作がそうであるように、もはやロマンチックコメディはけっしてそれ単体では成立せず、そこには「家族の物語」が絶対に必要なのだ、とでも言うように? まだよくわからい。でもとにかく『ラブ・アゲイン』は、ゲームそのものを変えようとした。だからとても勇気に溢れていると思ったし、この作品についてもっといろいろ考えてみたらいいとも思った。きっと作品自体が壊れようとも、見せるべき、感じさせるべきなにかがここにはあったんじゃないか。とっても豊かな作品だ。あぁでも、もちろん、ジェシカを演じるアナリー・ティプトンという女優を見るだけでも最高だ。第二のシェリー・デュヴァル、ついに現れました!てなわけで。