『ヒミズ』園子温増田景子
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園子温監督ははやくも震災を映画にとりこんだ。それが『ヒミズ』だ。結果、この映画は今後の被災地のひとつの可能性を描きだしたといえる。
この映画は古谷実による同名の漫画(2001-2003年連載)を原作とした映画で、9月に行われたヴェネチア映画祭ではコンペティション部門で主演の染谷将太と二階堂ふみがマルチェロ・マストロヤニン賞(新人賞)を受賞、1月から全国でロードショーが始まった。「普通」を夢見る中学生・住田(染谷将太)は、色々なことが積み重って父親を殺してしまい――という話なのだが、震災を受けて園監督はこの脚本を大きく書き直した。まず、舞台は3・11後の被災地のどこかに変更。彼の家の前の池の中央には津波で流されたままになっていると思われるプレハブ倉庫が浮かぶ。また、住田の腰巾着である同級生・夜野は被災して社長からホームレスに転じた老人・夜野にし、他にも被災者ホームレスという設定になっている。そして、最大の変更はラストである。
『ヒミズ』のラストでは、ふたりで川原を走りながら茶沢が住田に向って「ガンバレ」を絶叫にちかいかたちで連呼する。この結末は原作ではありえない。住田はその時点で自殺をしてしまっているからだ。だが、繰り返し述べられているとおり園監督による脚本の書き直しで、住田は生きのびる道を選ぶ。その書き直しと、その一連の流れからの茶沢の声援に希望を抱いたといった感想が多いが、そこに対して首をかしがずにはいられない。あまりにも過剰すぎやしませんか。別に絶叫することもなければ、「ガンバレ」と連呼する必要もない。ふたりの表情・動作と、それまでの住田にむけられた異様な愛情表現と半強制的に自首に導いたそれまでの経緯をふまえれば、走る住田に茶沢が並走すること自体に充分「ガンバレ、住田」のメッセージが含まれている。
そもそも園子温監督は映画においてかなり饒舌家なところがある。それは彼が詩人であったことに起因していると思われるが、とにかくセリフ、セリフの嵐。どの登場人物も監督の手にかかればしゃべり出す。饒舌家ぶりが見えるのはそこだけではない。前作『恋の罪』では田村隆一「帰途」、そして今作はフランソワ・ヴィヨンの「軽口のバラード」のワンフレーズをことあるごとに反芻しているのも印象的だ。「俺にはわかる 何だってわかる 自分のこと以外なら」。映画を見終わった後には暗唱できてしまうほど繰り返される。
はじめにこの一節を聞くのは映画の冒頭。カメラはゆっくりと左から右へと横移動しながらあの風景を映し出す。木から建物から電信柱から街の起伏をつくっていたものたちがなぎ倒されて瓦礫となり、開けてしまった風景を。場所の特定はできないものの、そこが東日本大震災の津波を受けた被災地だということだけはわかってしまう。ニュースなどで似たような風景は何度も目にしているが、やはり言葉を失うほどの壮絶さがその映像にはある。そこに流れるのが、茶沢(二階堂ふみ)によって朗読されたヴィヨンの詩だ。見るだけで多くを語ってしまう雄弁な映像にさらに何かを加えてしまうのを、饒舌といわずになんといおう。下手したら胸焼けをおこしかねない。
「ガンバレ、住田」の連呼もやはり饒舌家ゆえの演出なのであろう。それにしてもすでにがんばっていると思われる住田にそこまで声援を浴びせなくともよいのではないだろうか。それはまるで3・11以降日本中で繰り返されている「ガンバレ、東北」「ガンバレ、日本」のスローガンのようだ。
きっとここで登場する被災したホームレスの人たちも数年前にはその「ガンバレ、東北」「ガンバレ、日本」の言葉を何度もかけられてきたことだろう。しかし、震災から5年程度経ったと思われる『ヒミズ』の世界ではそのような声援はなくなっている。きっとかけられたとしても、それは地域的なものではなく「ガンバレ、○○さん」と個人的なものではないだろうか。ニュースを見ていると、まもなく失業保険や仮設住宅といった支援が切れてくる被災した人たちに、そのような移行に直面する恐れがありえてしまう。
住田は「未来」なんだと夜野は言う。だとしたら、これは希望を持てる未来なのだろうか。