『ドラゴン・タトゥーの女』デヴィッド・フィンチャー隈元博樹
[ cinema ]
リスベット(ルーニー・マーラ)の背中から美尻にかけて彫られた漆黒のドラゴン・タトゥー。その美しいドラゴンから一瞬たりとも目が離せないかのように、気がつけば誰もがこの158分の「犯人探し」の旅へと巻き込まれていくだろう。ただしデヴィッド・フィンチャーのフィルモグラフィーをたどってみると、『セブン』では捜査中に連続猟奇殺人事件の犯人が自ら出頭してしまうことで「犯人探し」は終わりを告げた。『ゲーム』や『ファイト・クラブ』においても虚構と現実をぐるぐると駆けめぐりながらも、結局は真偽の境界なんてさして重要ではない世界へと引きこまれていたりもする。『ゾディアック』に関しては最終的に誰が犯人だったさえわからない。前作『ソーシャル・ネットワーク』は「見ず知らずの人間たちが、facebookを通していともたやすく新たなコミュニティを作っていくんだ」というショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)の一言に集約されているようなフィルムだった。
つまりフィンチャーのフィルムとは、そうした物語のカタルシスが奇妙に見え隠れする。しかしそれは決して悪いことではない。『パニック・ルーム』のように隠されていた富豪の遺産はどうなったのかということよりも、密室に立てこもった母娘と犯人たちの攻防にこそ強い醍醐味が隠されているからだ。だからフィンチャーにはカタルシスの周辺に漂う演出の細部にいつも唸らせられてきた。彼のフィルムとは物語の核心に迫りながらも、それをあえて遮断、あるいは欠落させることで成立しているとも言えるだろう。
だからハリエット殺害事件の「犯人探し」は、『ドラゴン・タトゥーの女』そのものをぐるぐると円環させるためのエンジンではあったかもしれない。しかしそれが結局誰だったのかということは重要ではない。むしろどうでもいい。重要なのはミレニアムのゴシップ記者であるミカエル(ダニエル・クレイグ)とリスベットがいかにして出会い、犯人を追求していくのか、あるいは追い詰められるのかというプロセスなのだ。使い慣らされたMacパソコンの画面上に怒涛のスピードでタイピングされていく文字や記号、スキャンされた多くの証拠写真が、しだいに「犯人探し」の手がかりとなっていく。カタルシスの周辺に漂う速度を持った細部によって、画面の強度が沸々と漲ってくるのだ。
さらにはヘーデビー島の高台に位置したマルティン(ステラン・スカルスガルド)の豪邸へ侵入するシーンに、フィンチャーにおける見事なカタルシスの逃避とそのプロセスが集約されている。ハリエット殺害事件と連続猟奇殺人事件に関与しているのがマルティンだと気づいたミカエル。彼は全面ガラス張りで白く塗られた邸宅といった状況下、不幸ながらもマルティンの帰宅に遭遇してしまう。寒風がかすかに漏れるベランダ窓の隙間や、ゆっくりと後退する廊下、二人の表情といった数々の鬼気迫る適切なショットが見事に並べられ、同時にヴァンゲル社の地下資料室で調査するリスベットのショットもそこに散りばめられていく。結局邸宅の地下室に連れこまれたミカエルは、マルティンにワイヤーロープで吊るし上げられ、ある一言を彼に問われる。「またフィンチャーにしてやられた!」と思わず膝を打ちたくなる瞬間なのだが、同時にそれは彼のフィルムにとって重要ではなかったりもするのだ。