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February 17, 2012

淡島千景追悼
梅本洋一

[ cinema ]

 映画って本当に不思議だ。森繁に「たよりにしてまっせ」と言われていたり、原節子の長年の友人の料亭の娘だったりした、あのキャピキャピしていて、屈託のない、それでいて頼りがいのある女性が、87歳でこの世を去ってしまった。映画の中ではいつも美しくて、行動的で、「いいなあ、こんな人が友だちにいたらな」といつも思っていた人が、実は、現実の世界では80歳をとおに越えていた。当たり前のことだ。小津安二郎(『麦秋』)だって、豊田四郎(『夫婦善哉』)だって、川島雄三(『貸間あり』)だって、ずっと前にこの世からいなくなっているわけだから、淡島千景が亡くなってもぜんぜんおかしくない。87歳という年齢はむしろ天寿を全うしたとも言える。でも、不思議なのは、ぼくが最近いろいろな機会に見直した日本映画の中の淡島千景は、いつも元気で若々しくて素敵だった。その残像があまりに強い過ぎて、彼女が亡くなったと言われてもぜんぜん信じられないだけだ。
 単純な事実を確認しただけのことだ。アンドレ・バザンのミイラコンプレックスだ。人は永遠の若さを防腐処理したミイラにして残そうとしたい欲望を持っている。写真映像の存在論というのは、その欲望の発露だとバザンは言う。老け役という例外はあるにせよ、写真であれ映画であれ、そこに映っている人は、現実のその人よりも必ず若い。ロラン・バルトの写真論も、そんな当然の事実の前に愕然とする体験を語っていたようにも思える。昔の恋人の写真を見ると今よりも若い。ロラン・バルトなら、若かりし頃の彼の母の写真のことを語っていたはずだ。つまり、淡島千景は、本当の年齢なんてどうでもよくて、映画の中の彼女はいつでも若々しかったということだ。
 これはとても幸せなことだと思う。けれどもちょっと寂しいのは、晩年の彼女は、原節子の神話とは反対に、名画座で淡島千景特集をやると、よくその場に顔を出して、もちろん映画の中の彼女よりもずっと歳を取っていたけれども、とても嬉しそうに昔のことを語ってくれていたのだが、その彼女の姿がもう見られないことだ。若い映画研究者にかつて自分が出演していた映画について語り起こした本もある。彼女のファンであるぼくは、もちろん、その本を買い求めて読んでみた。とっても真面目な本で、彼女に関わる映画を撮った巨匠たちの映画作法を解明しようと研究者たちが頑張っている。確かに興味深くあったのだが、ぼくは、彼女が出た映画のことより、彼女のことをもっと知りたいと思った。ぼくらは、彼女について彼女自身に聞く機会を失ってしまった。