『グッバイ・マイ・ファースト・ラヴ』ミア・ハンセン=ラヴ結城秀勇
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ミア・ハンセン=ラヴは井口奈己らとのトークで、『人のセックスを笑うな』と自分の作品とのドラマタイズにおける共通点は「暴力的なシーンの欠如」にあるのではないか、と語っていた。続けて、「暴力的なシーンを回避することはなにか保守的なことだと思われがちだが、むしろ暴力的なシーンが存在してしまうことの方がよほど因習的なのだ」とも言っていた。
その言葉は、これまでよく見えていなかった彼女の作品のある側面を明らかにしてくれたような気がした。たとえば作品の内容について感じたわけではないが、彼女の長編処女作のタイトルを文字通り読むと、「すべてが許されて」しまっていいんだろうかとも考えてしまっていたのだ。だが、前日のドミニク・パイーニとの対話の中でのパイーニの鋭い指摘(「あなたの映画には悪人がいませんね」)と冒頭の彼女の言葉が気づかせてくれたのは、あらゆる罪や過ちが裁きや告白によって事後的に許されるというようなことではなくて、許されたり贖われたりすべき罪や過ちなどそこにははじめからない、というラディカルな宣言こそが処女作のタイトルの意味するところだったのではないか、ということだ。
『すべてが許される』と同様の、なめらかだが急激な時間の飛躍を映画の内部に持つ『グッバイ・マイ・ファースト・ラヴ』は、一見の端正さとはうらはらに、非常に歪な部分も併せ持った作品である。16歳のひとりの少女が、数年間の時間を飛び越えてそこに存在し続ける。ただ髪型や衣装がわずかに変わるばかりで、老いや肉体的な成熟をしめすメイクや加工はなされない。にもかかわらず、髪を切ってかつての恋人と向き合う彼女は、かつての彼女と決定的になにかが違っている。この映画の中で、時間の経過は成長や衰えのような一方向的で不可逆的な要素を伴っていない。実際彼女の髪はまた以前の様に伸びるのだが、やはりそこでもなにかが以前とは変わっている。10年近い時間が流れる映画としてはきわめて異例なことに、この作品は、時間を老いや成熟といった因習的な神話に結びつけることなく、ただ変化そのものとして描き出す。歳をとるのはいいことでもなければ、まして悪いことでもない。ただ、違うだけ、なのだ。
だから、この作品の最後でかつて少女であった女性(そしていまなお少女でもある女優)が川の流れに身を浸すときに聞こえてくるジョニー・フリンとローラ・マーリングの「The Water」、その出だしの一節が奇妙に心に刻みつけられる。
"All that I have is a river”。
その時の彼女は変容の流れそのものであって、そこにはもはや古さと新しさ、幼さと成熟のような対立は存在していない。というかむしろそのすべてが同時にも存在するようなそんな女性に見える。まるで前作のエンディングで流れた「Que sera sera」の歌い手のように、幼い少女であって、次いで恋人を持つほどに成長し、やがて息子を持つ母親にもなる、そんな女性みたいだ。その女性のように、そして『あの夏の子供たち』の三姉妹のように、互いに似通いながらもまったく違った表情をその都度見せるミア・ハンセン=ラヴの三部作をそれぞれに愛さずにはいられないと、繰り返し彼女の映画を見る度に思う。