『少年と自転車』ダルデンヌ兄弟梅本洋一
[ cinema , theater ]
父親に捨てられた息子は、それでも父親を信じようとする。だってまだあそこに父親は住んでいる。だって、まだあそこに父親が買ってくれた自転車があるじゃないか。施設の指導員たちは、隙を見て常に脱出を試みようとする少年に「落ち着け、落ち着くんだ」と繰り返す。それでも脱出を繰り返す少年。
偶然、逃げ込んだクリニックの待合室で噛みついた女性と知り合い、彼女は、盗まれた自転車を少年に買い戻す。なぜか? そんなことは問題ではない。すべてから断ち切られた少年は、まず自転車と繋がることができた。女性の乗るシトロエンの周囲で自転車を乗り回す少年。施設の門までシトロエンを追いかけ、「週末だけ里親になってくれない?」と女性に依頼する。
いつものようにダルデンヌ兄弟は、繋がりを絶たれた年少者の肩に、まるでキャメラを埋め込んだように、ほとんどすべてのショットで、少年を映し出す。つまり、映画を見ているぼくらも、少年を通してしか、この映画の世界と繋がることができない。だから、父親が少年を捨てた理由を知ったところで世界は一向に揺らぎを見せない。なぜなら繋がりを絶たれた少年の切羽詰まった時間の方が、父親が息子を捨てた理由よりもずっと強度に満ちたものだから。そして映画は、その強度に徹底して身を委ねる。
もちろん、それによって得られる緊張感は、ダルデンヌ兄弟が、彼らの映画でずっと伝えてきたものだ。だが、『少年と自転車』には、少しだけ別の要素が入っている。まずシリル(少年)が登場しないシーンがふたつあったこと。いままでのダルデンヌ兄弟の映画では、主人公が「見えない」シーンはなかった。最初は、里親のサマンサが父親を話すために父親が勤めるレストランの厨房に入るシーン。2つめは、サマンサが、ついに里親をやめる決意をして、施設の係員に電話をするシーン。両方とも、シリルにとって決定的なシーンだ。繋がりを持っていた大人が少年との関係性を断ち切ることを知らせるシーンだからだ。
次の要素は、初めてフレームの内部に音源のない音楽をダルデンヌ兄弟が自らの作品に付加したこと。ベートーヴェンの曲だ。これは聞いていて感動した。
そして最後の要素は、おそらくダルデンヌ兄弟は意識していないだろうが、彼のフィルムを見てみて、ぼくは、初めてその背後にある別の映画を感じた。遊園地の遊戯用のクルマに乗る部分では、ブレッソンの『ムシェット』を、そして、何度か出てくる少年がペットボトルの水を飲むシーンでは、トリュフォーの『野性の少年』を思い出した。
それら三つの要素は、それまでのダルデンヌ兄弟の映画には、存在しなかったことだろう。だから、ふたりの映画の独自性が薄くなっているのだろうか。否、ぼくには、この映画が、それまでのダルデンヌ兄弟の映画よりも、これらの要素によって深みを増していると思えた。