『灼熱の肌』フィリップ・ガレル田中竜輔
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豊満な肉体をしなやかに弾ませ、見知らぬ男性と踊る女優のアンジェル(モニカ・ベルッチ)に、その夫である画家のフレデリック(ルイ・ガレル)は「まるで娼婦みたいに見えた」と吐き捨てる。ひと組のカップルにおける深刻な危機を明確に示すこの言葉を耳にして、しかしそれに当惑せざるを得ないのは、映画が始まった時点ですでに成立していた(と、同時に破局していた)このカップルの育んだであろう「愛」のありようを、私たちがまったく共有できないからだ。なぜこのカップルが愛し合い結婚にまで至ったのかという過程がゴッソリと抜け落ちているがゆえに、この台詞はたんに『灼熱の肌』というフィルムにおけるひと組のカップルの説話上の「危機」を指し示すものとしては、あまりに大きなノイズを含んでいる。フィリップ・ガレルが自らの作法について語る「愛についての思考」とは、おそらくこのノイズにこそ介在している。
アンジェルがその見た目として「娼婦みたい」であるか否かということは、決して自明な事柄だとは言えない(むしろモニカ・ベルッチのグラマラス過ぎる身体は、エロティックであることを通り越して、このフィルムの終盤において母となるエリザベート(エリーヌ・サレット)を超えた母性を溢れさせているように見える)。それよりも重要なことは、フレデリックが「娼婦みたい」なものとしてアンジェルを「見た」ということだ。つまりフレデリックは他者を「見る」ことにおいて、自身の妄想や思い込みに肉薄させたイメージをそこに暴力的に生み出そうとすることをやめない人物としてある。妻であるアンジェルばかりでなく、彼の友人であるはずのポール(ジェローム・ロバール)にさえ、「そんな目で僕の妻を見るな」と罵りの言葉を浴びせることからもそれは明らかだろう。
やがて彼との別離を決意するアンジェルは、その直前にフレデリックが自分のことを「見ない」ことに苛立っているのだとエリザベートに告白する。だが、おそらくそれは逆だ。アンジェルは、フレデリックが自分を「見る」ことにこそ苛立っているはずなのだ。「正面」から自身に向き合うことなく、つねに自らの暴力的な「アングル」を崩そうとしないフレデリックと自身との視線の食い違いにこそ、アンジェルは耐えられなかったのだ。チネチッタでの映画内映画撮影シーンにおいて、スタジオに侵入してきたフレデリックにアンジェルが激昂するのは、クレーンに載せられたキャメラの、そのちょうど「斜め」ほどの位置からフレデリックが彼女を見ていたからだ。正しいアングル=キャメラに対して完全なねじれの位置にあるフレデリックの視線が、アンジェルに決定的な苦痛を浴びせるのだ。
その一方で、このフィルムの語り手であるポールとエリザベートによるもうひとつのカップルが、決定的な危機を乗り越えてゆくのは、彼らの「アングル」がはじめからその角度を共有するものだったからだろう。撮影現場で端役同士として出会った彼らは、映画内映画を撮影する架空のキャメラと、『灼熱の肌』を撮影する現実のキャメラの差異を軽々と乗り越えてしまう。突然の夜襲に飛び起きる兵士のシーンを捉えたキャメラが、あたかもそのまま撮影を続けたかのごとき質感で、撮影を終えたポールとエリザベートの出会いを捉え、そしてその質感は映画の終わりまで引きずられてゆくことになる。
ここで「このどちらのカップルが私たちにとって重要なのか?」といった問いを立てることほど愚かなことはない。なぜなら『灼熱の肌』というフィリップ・ガレルの「愛についての思考」は、このふたつのカップルを両極にしてこそ生み出されるものだからであり、このふた組のカップルがそれぞれ直面する「アングル」をめぐる弁証法にこそ、このフィルムの賭け金は存在しているように思われるからだ。
『愛の残像』において写真家を演じたルイ・ガレルが、『灼熱の肌』において画家という役割を担ったことは、フィリップ・ガレルがウィリアム・リュプシャンスキーという決定的な「アングル」を失ったことによって導かれたのではないかと思えてならない。ファインダーを通して決定的な「アングル」を模索する「写真家」から、不安定な色彩と線描によって自らの新たな「アングル」を危険を承知で創造しようと試みる「画家」へ。ウィリー・クランによって撮影された画面にほぼ全編を通じて介在する「ブレ」は、リュプシャンスキー的安定からは遠く離れて、私たちの視線をつねに戸惑わせ、翻弄する。
『灼熱の肌』は、決して私たちを閉鎖的なファンタスムに閉じ込めるような、独りよがりの芸術映画などではない。このフィルムは、限りない自由と不安に支えられた誰のものでもなく/誰のものでもある「アングル」の可能性についての探求であり、ひとつの「冒険映画」だ。その冒険の果てにフレデリックが辿り着く最後の光景には、フィリップ・ガレルという類稀なシネアストの、新たな探求の兆しが映し出されているように思えた。