『現在地』チェルフィッチュ(作・演出 岡田利規)梅本洋一
[ theater ]
何の予備知識もなくKAATの席に腰を下ろし『現在地』を見た。やや斜めに設置されたプロセニアム・アーチ、そして後方の壁には雲や宇宙のスライドが投影され、裸舞台には7組みの小中学校の教室のようなテーブルと椅子が置かれている。7人の女優たちが登場し、あるときはモノローグで、あるときはダイアローグで言葉が交錯していく。チェルフィッチュの舞台として大きな変化は、彼女たちの身体所作と言葉とが、それまでのチェルフィッチュのように何の関係もなく行き違うのではなく、身体所作がミニマムに削られて台詞だけが屹立していることだろう。恋人の関係の、この村の終末が、彼女たちの口から次々に語られ、終わっていく何か、終わりつつある何か、終わってしまった何かについて多様な言葉が重層していく。
普段はおそらくチェルフィッチュ式の言葉と身体所作の行き違いの中で、俳優たちのフォルマシオンが行われているせいかもしれないが、身体所作が極限にまで削られた中で、彼女たちが唯一頼れる言葉は、見事に聞こえてくる。換言すれば、ここ30年来、多くの小劇場の舞台で普通に目にしてきた、台詞が身体所作──多くの場合、無意味な手と腕の動き──が消滅し、女優たちの声によって支えられた言葉が空間に響く体験は、新鮮なものだった。たとえばコメディ=フランセーズやロイヤル・シェイクピア・カンパニーにごく普通に見られる正面を向いて不動の俳優たちから屹立する台詞の姿に、ようやく日本の小劇場がたどり着いたのかもしれない。つかこうへいの舞台以来、舞台上の喧噪に慣れてしまったとき、台詞とわずかなノイズのような音響に支えられた舞台の緊張感は、前衛的であると同時にミニマルでもあったチェルフィッチュの舞台体験の新たな一歩を刻むものであることはまちがいないだろう。
そして女優たちは何を語るのか? さっきは「終わりつつあるもの」あるいは「終わってしまったもの」と書いたが、もちろん、近代古典を読んだことのあるぼくらにとって、それらの言葉たちが依拠するのはチェホフのそれであることは論を待たない。3.11以降、日常の演劇以降、身体所作と台詞の行き違い以降、「以後の演劇」──それは明瞭に、近代古典の開始と同一である。岡田利規も、『桜の園』を読んで、フィクションの力に驚いた、と公演のちらしで語っている。典型的な「以後の演劇」である『桜の園』、あるいは、常に終わりの始まりばかりを語っていたカルロ・ゴルドーニの数々の戯曲──『現在地』は、それらの世界をはっきりと指し示しているし、女性ばかりが出演するこの舞台は、形態的に『桜の園』よりは『三人姉妹』により近いだろう。
だが、そうした至極まっとうな「演劇史」への正統的な接近に驚きつつ、同時に、岡田利規には、ほとんど皆無だが、チェホフやゴルドーニに極めて濃厚な何かを感じずにはいられなかった。それは、微妙な台詞の中に、微妙な台詞の抑揚の中に、偉大な劇作家たちが込めたメランコリーである。失うことのメランコリー。まだまだ明瞭すぎる岡田利規の言葉の中には、消えてしまう、終わってしまうことへの論理的な発想はあるのだが、消えつつあり終わりつつあるものへのメランコリーが欠如しているように感じられた。だから、岡田の舞台に感心しつつ、その感心が深い感動にまで及んでくれない。