『灰と血』ファニー・アルダン田中竜輔
[ book , cinema ]
パウロ・ブランコ製作によるファニー・アルダンの果敢な監督第1作、『灰と血』にはふたりの母がいる。ひとりは一族の歴史を支える白髪の女であり、もうひとりは夫の死を契機にその呪縛から一度は身を引いた女だ。三つの家族をめぐる複雑なシナリオの中で、彼女たちはつねに特異点としての役割を担っている。多くの場面で椅子に腰掛けながらも、そこに映る誰よりも強大な力を占有し、誰彼構わず檄を飛ばし、一族の法を強要する白髪の母はまさしくこのフィルムの「大地」であり、一方その血をめぐる因果から逃れ出るために、文字通り「風穴」をあけようと己の自由を表明するもうひとりの母は、このフィルムの「風」だ。18世紀からほとんどその姿を変えていないというトランシルヴァニアの洋館で撮影された本作において、人々はこの「大地」と「風」の狭間をいかに生きるかという選択を迫られているかのように見える。
己の野生を奔放な「風」に煽られながら、しかし「大地」の加護と拘束から引き剥がされることはなく、しばし自らに与えられた役割を演じ続ける男たち/女たち( 花嫁、音楽家、道化、乱暴者、兄弟たち、恋人たち…….)。だが、この一族の真の主たるはずの「父」は、その姿を小さな諍いにおいて垣間見せるも、そこに新たな規律や動揺を創造することはない。問題はもはやこの家族の物語の発端にはない。すでにそこに存在する家族の物語(=戯曲)を忠実に実現させようとする母(=大地)と、そこに自由を創造するための逃走を図る風(=母)、このふたりの母(=演出家)の闘争によって、人々は自らの歴史を、ときには誤読を交えつつ、再び学び始める必要があるのだ。
しかしそのふたりの闘争は、演じることなど知らない動物たちによってこそ決定的に破壊される。『灰と血』における恐るべき「野性」が発現する瞬間は、同時にこのフィルムにおいてほとんど唯一の「無垢」を失う瞬間へと接続される。大地を揺らし風を裂く一発の銃声によって引き起こされた混乱が、逆説的にこの家族の物語にかりそめの秩序を取り戻させる。しかしながらその結末は、私たちに安心をもたらしてはくれない。「風」の低く濁った叫びは、すでにまぎれもなく「大地」を揺らしてしまったからだ。
この悲劇を収束させようとする「血」の交換は、もはやその地に安定を繋ぎ止めようとする「儀式」ではない。それは、異物をその地へとほとんど無理矢理に染み込ませ、アレルギーを引き起こさせるようなリスキーな「実験」として私たちの目に映り込むだろう。目眩を覚えずにはいられまい。