『先生を流産させる会』内藤瑛亮田中竜輔
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現実の事件において用いられた「先生を流産させる会」という言葉、その得体の知れなさにこそ、このフィルムの着想は得られたのだと、内藤監督はすでにいくつかの場所で証言している。たとえば「先生を殺す会」のような直接的な悪意とは異なり、より曖昧で、より底知れぬ異様さをしたためたこの言葉にこそ、『先生を流産させる会』というフィルムは突き動かされているのだと。しかしながら『先生を流産させる会』は、そのような不気味さを「理解する」ため、あるいは「解読する」ために撮られた作品などでは、ない。
もちろんこのフィルムには、現実の事件に徹底的に向き合って、その細部を現場検証のように探るような方法論もあり得ただろう。しかし内藤監督は、大胆にもまずその事件の犯人の性別を変えてしまう。かつて自分もそうであった少年たちではなく、決定的な他者としての少女たちを導入することで、作劇において理解不能なファクターを増やすことを選択したというわけだ。その試みが、現実の事件に対する倫理的態度を欠いているだとか、ある種のステレオタイプな性差に対する男性側からの偏見が強調されるに過ぎないといった批判に晒されるのは当然だろうし、そのすべてが的外れだとも思わない。けれども、繰り返すようにこのフィルムが試みるのは、そういった「真実」の「解明」などではない。それは「得体の知れない」もの、「不気味」なものとしての、「先生を流産させる会」という言葉を出発点に見出される何かを、新しく「発見」することにあるからだ。
それゆえにこのフィルムは、「フィクション」そのものである少女たちの「先生を流産させる会」を、徹底的にアクション・ヒロイン集団として映し出す。買い物カートを親子に向けて乱暴に転がし、窃盗団のごとく小道具屋を襲撃し、そして教師の一瞬の隙を突いて授業中に劇薬をくすね取り、理科室の机の上を飛び回ることで、少女たちはこのフィルムに風穴を空けるような運動をもたらす。見逃してはならないのは、そのようなひとつひとつのアクションの積み重ねにおいて、少女たちはいささかも自身のキャラクターやらアイデンティティといったものを構築しないことだ。むしろ時間が進むごとにそれは次々と削ぎ落とされ、幾人かの少女はそこから脱落し、「普通の女子中学生」へと還っていく(終盤、この「事件」の終幕後に映し出される、何ひとつ以前と変わらない教室の喧噪はその決定的な証左だ)。
少女たちは、「不気味さ」や「得体の知れなさ」なるものを、一切創造しない。彼女たちは自らの身体をもって、「先生を流産させる会」という「明かし得ぬ共同体」を媒介するだけだ。最良のバーレスク俳優たちが、笑いを創造する主体ではなく媒介であるように、少女たちは自らのキャラクターを限りなく零に近づけることによって、世界を知覚するのだ。「先生を流産させる会」の実質的なリーダーであるミヅキ(小林香織)とサワコ先生(宮田亜紀)との、暗闇での「決闘」シーンにおいて、それは頂点に達する。もはやアクションの細部を見ることが不可能な暗闇の中で、ミヅキの「知らん!」という一言が発せられるとき、ミヅキからはその唯一の行動原理だったはずの「キモい」という感覚さえも削ぎ落とされ、その結果、彼女は、ふたりの「母」の「愛」なるものの表出の媒介者へ、徹底的な無為の存在へと至ることになるだろう。
『先生を流産させる会』というフィルムが、その言葉の「得体の知れなさ」を発端に発見するのは、しかし圧倒的に清々しく、爽やかな「何か」だ。じっとりとした湿度を慎ましくも画面に定着させる、サワコ先生のシャツに滲む汗の「染み」を捉えたワンショットのように、なんでもなく、しかしかけがえのない何かとして、ラストシーンにおけるミヅキの顔は映し出される。吹き荒ぶ風に晒され、それに揺れる草を重ねられるその顔は、まるでスクリーンのように平坦で、まっさらで、それゆえに愛おしい。