『ミッドナイト・イン・パリ』ウディ・アレン結城秀勇
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冒頭、まるで絵ハガキのような構図で切り取られたパリの街角が連なっていく。イメージ通りのパリ。だがだからといって、それらが魅力を欠いているわけではない。ひとつひとつの映像というよりも、雨が降りだし、止み、いつの間にか昼は夜になる、そうした時間の流れに、気づけば魅了されている。
同じ事が、オーウェン・ウィルソンが行う時間旅行にも言える。その行き先もまたイメージ通りの「黄金時代のパリ」なのだ。フィッツジェラルドはまるでフィッツジェラルドみたいで、ヘミングウェイはヘミングウェイらしく、ダリはダリっぽい。この「黄金時代のパリ」が、現代を生きるオーウェン・ウィルソンの存在を霞ませるほどに輝いているようには、正直見えない。だが、夜が朝になり、雨があがるように移り変わっていく、「黄金のパリ」と「黄金じゃないパリ」の交代それ自体が、パリという都市に潜む輝きを掘り起こしている。
アメリカを離れて、旅行者のモチーフがふんだんに取り込まれたアレンの近作群には、『マッチポイント』における、ネットの真上で跳ね上がりどちらに落ちるかわからないボールに象徴される、選択の瞬間が存在していた。だが、跳ね上がったボールはひとつの分岐点ではあったとしても、ゲーム自体の流れを変えるには至らないというケースが多かったように思う(とりわけ思い出されるのは『それでも恋するバルセロナ』におけるような、いくつかの分岐と選択とが連鎖し加速しながらも、結局のところなにも選択しなかったのと同じになる、という結末だ)。この映画のオーウェン・ウィルソンも似たような立場に立たされる。だが、彼の選択は極めて微妙かつ繊細だ。二重の意味で旅行者である彼は、一方で帰還を決意し、同時に帰還を拒む。
雨のパリは素晴らしい。黄金時代のパリは素晴らしい。そうオーウェン・ウィルソンは主張しているけれど、この映画を見終えた観客の心に浮かぶのは、黄金だろうがそうじゃなかろうが、雨でも晴れでも、昼でも夜でも、パリはパリで素晴らしい、という素朴な感慨ではないだろうか。そしてもっと言えばそれは、別にパリですらなくてもいいのかもしれない。旅行者としてパリを訪れたオーウェンは、その場にいながらにして回りの世界が変わってしまうことで、もうひとつの旅にでる。その場にいながらにして行う旅行、それも映画の効果のひとつではないか。
映画が終わった後で、銀座の方へぶらりと歩いてみる。裏通りを行くと、夕暮れ前のその時間、そこにいる人は、働いている人もそうでない人も、何もしていないように見える。それで、パリにいかずとも、ここにも都市があったじゃないかと気づく。もしかしたら、こんな場所ならたとえば吉田健一の書いた「東京の昔」のような場所に連れて行ってくれる円タクが目の前に停まらないとも限らないとも思えてくる。 そんな都市の映画館でこの映画を見るのをおすすめする。
Bunkamuraル・シネマ、丸の内ピカデリー他にてロードショー中