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June 25, 2012

小出豊『綱渡り』ほか
結城秀勇

[ cinema , cinema ]

小出豊の作品には必ずDVが存在する。それは彼の監督作だけではなく、『県境』や佐藤央『MISSING』といった他監督への脚本提供作にも必ずある。
ここでまず付け加えなければならないのは、もちろんDVの定義などではなく、また一ぬ見してそれとわかる具体的なアクションとして記録されたヴァイオレンス=Vのありようですらなく、なにはさておき彼の作品におけるドメスティック=Dの重要性なのだ。鋭利なVよりも、内部空間を閉じ込めるDこそが、小出作品の出発点である。
『綱渡り』の狭小な食卓に始まり『こんなに暗い夜』の新興住宅地にいたるまで、家庭は登場人物を閉じ込める境界として存在している。だが『綱渡り』の食卓の天井に雨漏れする穴があいていたように、それはそれほど強固な囲いではない。そもそもDとは、まるで半身を欠いた○のような不完全な囲いである。父あるいは母あるいは子のいない家、または『月曜日』のように作られる前から「みんなを不幸にする」とわかっている家庭。だから小出作品において目指されるのは、Dの内側から外側への脱出ではないし、Dを破壊することでもない。極めて小出的な登場人物たちは、越境を、ではなく、ただ境目を見つめ続ける役割を担う。『綱渡り』の少年はまさしくそうした役割を完璧に生きているし、『県境』の少年少女が目指すのも県境の向こう側ではなく、境目そのものなのだ。それはDは不完全であると宣告する行為ではなく、その不完全さを詳細に観察することである。『こんなに暗い夜』において繰り広げられる、「家庭内の出来事」へ向けての終わらないリハーサルのように、その観察を通じて、Dの中にあるDといった具合にDは自らの深度を増し、マトリョーシカ化したDの相似的な関連性の内に、われわれは不完全さを観察する。
そして小出のDVにおけるDがそのようなものだと考えたときにはじめて、残るVの重要性について語りはじめることができる。これは鋭利さの象徴などではなく、むしろD同様に半身を欠いた▽なのだと考えるべきだ。小出の暴力=Vはどの方向にも常に均質な刺激を与える角を持ったものではなく、ある角度から見れば単なる凹みのようにしか見えない。そしてそれは暗がりの中に身をひそめながら、ほんのつかの間すマトリョーシカ化したDの内側から、「おはよう靴下」のようにぬるりと顔をのぞかせる。私はいつもその瞬間に震え上がる。


6/29より神戸映画資料館にて上映