『愛の残像』フィリップ・ガレル高木佑介
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恋人との結婚を間近に控えているフランソワ(ルイ・ガレル)は、1年前に彼が捨てたことで死んでしまった元恋人・キャロル(ローラ・スメット)の幻影を見るようになる。「あなたが愛したのは私だけ。あなたは今の人生に飽きている。だから私のほうに来なさい……」。鏡の中のキャロルからの問いかけに対し、はじめは自分に言い聞かせるかのように今の恋人エヴ(クレマンティーヌ・ポワダツ)への愛を口にしていたフランソワも、次第に困惑を隠せなくなっていく。本当に僕はエヴのことを愛しているのか。僕が本当に愛しているのは、やはりキャロルなのではないか――。もちろんそんな内省的な台詞はこの映画には無いのだが、ごく微妙にすれ違い続ける恋人との会話の細部や、ルイ・ガレルの演技によって、そのようなフランソワの台詞ならざる声が聞こえてきてしまう。「パパ!パパ!」と叫ぶ息子の声から逃げるようにしてパリを去っていったルー・カステル(『愛の誕生』)や、『自由、夜』のエマニュエル・リヴァたちの姿が、画面に映っている「事実」以上の何かを物語っていたように、俳優の演技(存在感)が、物語の枠を押し拡げ、映画そのものを創造していくような瞬間がこの『愛の残像』には横溢している。実際、たとえばキャロルの幻影をとらえた一見するとチープなトリック撮影ですら、ローラ・スメットという女優の怪物じみた眼差しによって、何か世界の裂け目を垣間見ているかのような異様さで見る者に迫ってくるはずだ。ホテルの一室で、キャロルの眼差しにフランソワが否応なしに惹き寄せられていくように、俳優たちの「存在」を見ることが、「映画」そのものやその背後にある物語を見ることと等価になっていくような稀有な時間が、この『愛の残像』には流れている。
結婚して子供をつくって月並みな幸福を得ることが君は嫌だからそんな幻覚を見てしまうんだ、という友人の忠告に、「そうかもしれない」と答えるフランソワ。カメラマンである彼は、キャロルの幻影が現れる「鏡」を前にして、これまで気付いていなかった「自分」自身と向き合っているようにも見える。もちろん、『秘密の子供』以降のほとんどの作品は、他者を眼差すと同時に、ガレル自身が「自分」と向き合っていくかのような作品だったと言えるのかもしれない。しかし、ここで正直に言えば、「1968年5月」も「ニコ」との生活のことも絶対に知り得ることのできない私にとっては、ガレルの映画はどこか遠いものであり、その映画を見ている「自分」はただの傍観者にすぎないように感じていた気がする。だが、登場人物たちの世代が近いということもあろうが、俳優たちの演技の力によって、徹底して男女のミニマムな関係に収斂していくこの『愛の残像』は、映画を見ている私という「自分」と、決して無関係ではないもののように思えたのだった。
だからこそ、後継者たちのために「ヌーヴェルヴァーグ以降の映画の歴史」についての仕事をしていく必要がある、とインタヴューで答えているフィリップ・ガレルの言葉は、これからの映画の可能性はそこにしかない、と私に確信させるのに十分な説得力をもって響いてくる(nobody37号掲載)。そして、次作『灼熱の肌』において、私たちは「ヌーヴェルヴァーグ以降の映画の歴史」をたしかに創造しているフィリップ・ガレルの仕事を、ゴダールの『軽蔑』への回答というかたちで目にすることになるだろう。
『愛の残像』6月23日(土)より/『灼熱の肌』7月21日(土)より 、シアター・イメージフォーラムにて連続ロードショー!