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September 20, 2012

『蜃気楼』製作報告イベント『今、僕は』竹馬靖具
増田景子

[ cinema , cinema ]

竹馬靖具監督の最新作『蜃気楼』の製作報告イベントに行ってきた。しかし『蜃気楼』の撮影は現在7分の1しか終わっておらず、今回のイベントでは前作の『今、僕は』(09)と数分の『蜃気楼』の特報の上映、そしてゲストによるトークショーが行われた。なので『蜃気楼』についてふれる前に、『今、僕は』の話をさせてもらう。

 『今、僕は』はとてつもなく閉鎖的な映画だ。主人公は20歳の引きこもり青年。部屋にはゲームや漫画が転がっていて、基本的には部屋なかで1日を過ごす。ここでひとつ注目したいことは、2009年製作の映画にもかかわらず、パソコンや携帯電話がまったく登場しないことだ。ゲーム用にテレビはあっても、ここからニュースやバラエティなどのテレビ番組が流れることはない。画面を見る限り、この部屋にある外部情報は全てパッケージング済みで流れのないものばかり。そんなブランケット状態の部屋にくるまりながら生きているのだ。
 そんな彼を映すのはよくブレる手持ちのカメラ。髭の青さまで目につく程のアップショットで、彼の動きを追うように止めどなく移動しながら撮り続ける。その視線からは怒りも同情といった特定の感情は感じられないものの、ちょっとした唇の動きさえも逃さないカメラの距離感がその視線の思い入れの強さだけをひたすら強調する。
 カメラをも巻き込んだ閉塞感は部屋にとどまらない。ドアを開けても、コンビニでは高校の同級生に会ってしまうような閉じた地方社会。展望のよい丘陵からの田園景色も別の角度から見れば逃げ場のない荒野である。

 そこに多少の揺らぎが加わってくるがその閉塞感が払拭されることはなく、以上のようなかなり練られてがちがちに固められた閉塞感に覆われたのがこの映画である。このような閉塞感を映画の強度と捉えることも可能かもしれない。しかし、ひとつ懸念すべきことは、この主人公を演じるのは竹馬監督自身であるということだ。別に演技にケチをつけるということではなく、監督兼主演であるがゆえに演技と演出の距離や、作品と監督との距離が取りにくくなっている。その結果、意図した以上の閉塞感が画面に滲み出てしまっている気がしてしょうがないのだ。
 『今、僕は』の上映後のトークでゲストの佐々木俊尚氏が、この作品は能動的に見ないといけない、というような趣旨のことをいっていた。それはこの映画が分かりやすさというものを放棄しているからだともいえるが、滲み出てしまった閉塞感のためだともいえてしまう。

 では次作の『蜃気楼』はいかようなのかと特報を見て見たら、驚くべきことに、そのような閉塞感や近さといったものは皆無。固定カメラがゆっくりとパーンをしながら、静かな湖を映し出す。人も遠目にしか見えず、靄で輪郭がおぼろげになっている。この監督には0か10しかないのだろうか。いや、冒頭に述べたようにまだ撮影は7分の1しか終わっていない。0でも10でもないグレーゾーンがどう存在していくのか。それが気になるところである。
 もちろん今回はあまり触れていないが、今回のイベントで何度も協力が呼びかけられていた観客からの寄付もまた、この映画自体にどう左右するのかも注目すべき点である。撮影終了は来年2013年5月、公開は2013年末が予定。まだまだ先は長そうだ。

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