『バビロン2―THE OZAWA―』相澤虎之助高木佑介
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東南アジアをバックパッカー旅行していたという監督の相澤虎之助は、自分や欧米人がビーチで能天気に遊んでいるこの旅には何か欠けている、それは恐らく「歴史」だと思い至り、『花物語バビロン』(97)から始まるこの「バビロンシリーズ」を構想したという。
「なぜなら歴史とは列強国の植民地支配の歴史であり、その基で経済と文化の交流が行われていることを意味するからです。過去を忘れ未来に向けて意識を覚醒しようとも歴史は消す事はできないし、逆に執拗に姿やカタチを変えて追ってくるのではないだろうか?」(相澤虎之助、『バビロン2』宣伝チラシの紹介文)
ここで明確に言い表されているように、若い女の子をスカウトするために新宿からベトナム・カンボジアに行くことになるOZAWA(富田克也)が、と言うよりもこの映画自体が、旅の道程で次第に絡め取られていくのはまさにその「支配の歴史」そのものだと(とりあえずは)言えるだろう。劇中に挿入されるテクストと英語ナレーションが物語る、日本、フランス、アメリカによるベトナム支配の「歴史」。しかし、それは教科書的なものではいささかもなく、米兵たちが休暇で開いていたサーフィン大会のことや、CIAによって歴史の闇に葬り去られたモン族のことなど、こう言ってよければ非常にトリヴィアルな、だが異様な生々しさのある言葉の集積として再構築される「歴史」だ。そして、この『バビロン2』が奇妙で素晴らしいのは、ベトナム・カンボジアで女遊びやらドラッグやら実銃射撃やらに興じているだけのOZAWAが、とめどなく流れていく言葉によって語られる「歴史」を「お勉強」しているようにはまったく見えない点である。言ってしまえば、この映画のなかでOZAWAは、テクストやナレーションの語る「歴史」とはどこか無関係なままに行動しているのだ。『ジャングル・クルーズにうってつけの日――ヴェトナム戦争の文化とイメージ――』のなかで生井英考が紹介しているエピソード――フランシス・F・コッポラが『地獄の黙示録』のフィリピン・ロケを行った際、当時4歳だったソフィア・コッポラが「ディズニーランドのジャングル・クルーズみたい!」と声を挙げたというあれ――のような、「無邪気で、奇妙に明るい倒錯」(生井)が、デブの白人を小馬鹿にしたり何故かベトコンの真似をして畑仕事するといった行動をとるOZAWAのベトナム・カンボジア旅行の基調になっているように見えるのである。
が、しかし。OZAWAはその一見無関係そうな「歴史」から逃れることが出来ない。それはこの映画を見ていると、どういう訳かわかってしまう。そして、その「執拗に姿やカタチを変えて追ってくる」歴史から逃れることが出来ない「感覚」の創出に成功している点が、この『バビロン2』という傑作に秘められた力の大きさのひとつの証左となっているのだと言えるだろう。
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だからつまり、少し飛躍するがこういうことが言えるのだと思う。この『バビロン2』は、人々が思い描くベトナム戦争のイメージだとか、『地獄の黙示録』(79)や『プラトーン』(86)といった、これまで散々撮られてきたアメリカ映画で我々が見聞きしてきたベトナム戦争の紋切り型なイメージや「歴史」だとかを、「無邪気で、奇妙に明るい倒錯」的態度をふる舞いつつ再審に付すことで、新たな別の「歴史」を我々に想起させる映画だと。実際、この映画を見て驚かされるのは、遊んでいるだけにしか見えないOZAWAの映像に、テクストとナレーションが対置され、そして音響が緻密に構成されることによって、紛れもないひとつの統一感が生まれていることだろう。瑣末な出来事の集積が「歴史」として語られるように、映像と音とテクストによって創造される、ひとつの物語=歴史。さらに驚くべきは、8mmによって撮られた新宿・ベトナム・カンボジアの風景が、まったく無関係な場所同士ではなく、すべて同じような風景に見えてきてしまうという凄まじさ。それはまるで、ベトナムにもカンボジアにも新宿にも「支配の歴史」があり、すべての風景はそこから生まれている、そしてその「支配の歴史」から我々は逃れることはできないのだ、と語りかけているかのように、この『バビロン2』は我々の日常そのものの「無邪気で、奇妙に明るい倒錯」ぶりを暴露しているようなのだ。我々は「支配の歴史」から逃れることはできない――不意に何かに突き動かされるように「バビロンの銃」を手にとり、都庁と対峙することになるOZAWAのように……。
この映画の終盤、ベトナム・カンボジアから帰って来たOZAWAは、仲間たちが消え失せてしまった歌舞伎町を彷徨する。かつてOZAWAにスカウトされて働いていたという女性と出会い一言二言の会話を交わす場所は、明確には映し出されないがおそらく旧・新宿コマ劇場の前だ。その跡地には、TOHOシネマズによる「12スクリーン約2500席の都内最大級」のシネコンが開業することがすでに告知されている。入念に管理された画一的な風景を生み出し、ベトコンの「塹壕」を片っ端から埋めていくかのような権力の一端が、この何気ないワンシーンからも垣間見えるように思えるのは、決して私だけではないはずだ。
「過ぎ去った事柄を歴史的なものとして言表するとは、それを<実際にあった通りに>認識することではなく、危機の瞬間にひらめくような想起を捉えることを謂う。歴史的唯物論にとっては、危機の瞬間において歴史的主体に思いがけず立ち現われてくる、そのような過去のイメージを確保することこそが重要なのだ。危機は、伝統の存続と伝統の受け手とを、ともに脅かしている。両者にとって危機は同じひとつのものであり、それはすなわち、支配階級に加担してその道具になってしまうという危機である。伝承されてきたものを制圧しようとしているコンフォーミズムの手から、それを新たに奪取することが、どの時代にも試みられねばならない。」(ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』ちくま学芸文庫所収、P.649)
いま現在、もし我々がある「危機」のただなかにいるとすれば、その「危機」の瞬間にこそひらめくような「想起された歴史」を獲得することが我々にとって重要となるはずだ。ベトナム戦争の歴史を<実際にあった通りに>辿るのではなく、「思いがけず立ち現われてくる」イメージとして8mmフィルムに刻み込み、そしてそれを新宿の風景にオーヴァーラップさせるという賭けにひとまずの勝利をおさめたこの『バビロン2』のように。そうした意味で、かつて『ベトナムから遠く離れて』(67)でゴダールが言及したゲバラの以下の言葉は、未だ有効性を失っていないと言えるのではないだろうか。
「二つ、三つ、そして無数のベトナムをつくるのだ」。
11月10日(土)より渋谷アップリンクXにて2週間限定ロードショー!連日21:00から
『バビロン2』公開記念<相澤虎之助 バビロンナイト>11/10(土)23:15-開場/23:30-スタート(5:30終了予定)@オーディトリウム渋谷