【TIFF2012】レポートvol.01 10月21日(日)増田景子
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今日はインドの右に始まり、左で終わった1日であった。
午前中はザ・ボリウッド映画の『火の道』(監督:カラン・マルホートラー)を見る。どうやら最近インドもシネコン化が進み、回転のいい2時間ものが増えているらしいのだが、この映画はそんな波に抗いながらの167分。もちろんアクションも歌もダンスも盛りだくさん。しかしボリウッドをあなどってはいけない。ハリウッド映画に比べ、ボリウッドの方が昔堅気な職人気質なのだろう。スタジオ制が今なお存続しているこの国の撮影技術や編集技術はなかなかなもので、確かに全体の話は長いのだが、場面ごとは無駄のないメリハリのあるテンポで3時間きっちりストーリーを語りぬく。大衆娯楽映画としてはかなりレベルが高い。
そんなボリウッドと対局にあるのが同じくインド映画の『テセウスの船』(監督:アーナンド・ガーンディー)ではないだろうか。3部構成をとっているのだが、オムニバス映画かと思えるほど3つのつながりが見えない。テーマもセリフも難解なのだ。一貫しているといえば、ドキュメンタリーのような距離感を持つ画面。フィクション映画なのにもかかわらず、あたかも彼らは実在しているかのように、もとからある人生を切り取って編集しているかのような錯覚を起こさせる。なぜそのような現象が起きたのかはっきりとはわからないが、あえていうならば物語を語ろうとしていない態度が影響している気がする。例えば、指導者的存在の人が話していても、カメラはその内容に同調することも反発することもないし、観客の集中を維持するためにカット割りすることもない。正面から彼の話す姿勢をひたすら映すだけなのだ。また彼が死を遂げる場面でも、その死を悼む素振りはなく、カメラは淡々とその死様だけを遠目に撮るだけなのだ。この徹底した人物に対する、物語に対する客観的な態度をフィクション映画で見ることはなかなかないだろう。だから物語と画面が一致しているようで、きれいに分離していて、物語が難解になればなるほど観客は混乱することになるのだ。だが、やはりこの映画を評価したいと思うのは、その分離してしまった画面があるからこそである。微細な人間の顔つきを映し出し、ときには息を飲むほどの美しい光景を切り取ってしまうその画面は、残念ながらうまく言葉にはできない。機会があればぜひ1度見てから、その評価を決めてほしい映画であった。
順番は前後してしまうが2本目は『木曜から日曜まで』(監督:ドミンガ・ソトマイヨール)というチリの映画。水面下では不仲な夫婦と子ども2人の4日間にわたるロードムービーなのだが、特にこれといって何も起こらない。外の景色も荒野か砂漠。時々誰かと合流するものの、基本的には4人で車にいるため、子どもたちは車中で暇をもてあそんでいる。そして見ているこちらもだんだんと暇になってくるので、ちょっとした夫婦の亀裂にものにまで過敏に反応してしまうのだ。もちろん彼らの不仲の原因はわからない。観客はただ見ているしかできないのだ。長女同様に。子どもは親の話に耳を澄まし、見つめることで色々なことを悟っていくが、映画の観客というものもそういうものかもしれない。
3本目はインドネシアの『目隠し』(監督:ガリン・ヌグロホ)。これは貧困とイスラム教にまつわる映画で、女性差別や政治問題まで話は広がる。女性差別を失くそうと宗教団体に入信する少女、宗教団体に入って失踪した娘を持つ母親、貧しくて学校を追い出された青年の3つの視点が入り交じる。閉塞感や焦燥感、不安、絶望といったことが細やかな演技で行われていたからこそ、雑然としたラストの救われなさに重みを感じる。あと思ったのは、この映画にとどまらないことなのだが、欧米とは違う歌の使われ方について考察してみると面白いかもしれないということ。ミュージカル映画ではないが、彼らは自然と歌を歌いだす。祈りもまたある種の歌となっている。言葉や心情に色を加える一方で、一般化してしまう力を持つ歌を、アジア圏ではどのように位置づけているのか。これは明日からも引き続き考えていきたいことである。