【TIFF2012】映画祭後半レポート代田愛実
[ cinema ]
10月25日−26日、鑑賞作品
〈コンペティション部門〉
『イエロー』(ニック・カサヴェテス/アメリカ)
〈日本映画・ある視点部門〉
『少女と夏の終わり』(石山友美)
〈ワールドシネマ〉
『5月の後』(オリヴィエ・アサイヤス)
『ヒア・アンド・ゼア』(アントニオ・メンデス・エスパルザ)
『眠れる美女』(マルコ・ベロッキオ)
前半に比べて明らかに鑑賞本数が減ってしまった。25日の最後に観た『5月の後』が、あまりにも大きな時間と空間の広がりを持つ映画作品だったため、私は打ちのめされ(おそらく数ある作品を通してこの映画祭の姿をつかもうとする試みが、いかに作品に対して不誠実であるかを噛みしめたため)、26日には2本だけで会場を後にしてしまった。
もうグランプリも選出され、遅くなってしまったが、レポートをお伝えする。
『イエロー』がこれまで見たコンペティション作品と異なるのは、主人公が、生きている状況との対置では描かれず、彼女から見た世界の中で描かれているという点である。幻覚や幻聴は幻ではなく実際にそこにある上に、誰からも否定されないものとして最後まで押し切っている。家族あるいは恋人(これも家族なのだが)との再会は何も彼女を変えない。彼女がおかしくなってしまった理由として家族を登場させ、他者に受け入れられるという寛容さの中で終わる。幻覚が実写ではなくアニメーションに変わった分、”悪化”したのかもしれない。主演女優ヘザー・ウォールクィストが共同脚本として参加しているだけあって、姉妹の喧嘩のシーンは本当にすさまじく、笑える。彼女を見て自己を愛せよという、寛容で優しい世界で作られた、閉じてゆく作品に仕上がっているように感じられた。
『眠れる美女』は現代的であると同時に歴史的であり、普遍的でもある。ある少女の尊厳死をめぐって政界、教会、家庭、病院と舞台を切り替えながら、家族、カップル、兄弟がどれも強度を持って描かれている。どの人物にも肩入れせず、だが人格をしっかりと捉えており、尊厳死の是非だけではなく人生の謎、存在の謎へと広がってゆく。面白かった。
『ヒア・アンド・ゼア』ではメキシコのある家族を軸に、アメリカから帰還した夫がやがてまた故郷を去るまでを時系列で追う。カメラが画を作るのではなく、そこに居る人や街はただそこに居てカメラを受け入れているだけのような、控えめだが力強い映像。物語は自然と女と男の差異を浮かび上がらせる。こちらとあちらの、あちら=アメリカは映される事はない。その土地を踏んでいない者にとっても踏んだ者にとっても、その場所は彼らの脳裏に確実に常に存在しているのだということを伝える演出力を感じた。
『少女と夏の終わり』は、カット割りが漫画のコマ割りを想起させた。漫画は時間を持たないメディアだが、そこに時間を付加するとこのようになるのかもしれない。台詞は吹きだしの中で語られ、顔のショットに「・・・」だとか「!」が付けられていそうだ。少女漫画よりは少年漫画。場面シーンが連続する中に、人物の顔のアップのコマが大きくかぶさってくるというタイプのコマ割りと似ている。コマの大きさでその重要性を示すが、対してこの作品ではアップのシーンが長くとられている。道路や神主の常駐しない神社といった公共物が私の地元のものとあまりに似すぎていて驚いた。地元が舞台だといわれても納得できる程である。つまり、どこにでもある風景によって作られている。だが、この監督はまだ、どこにでもあるような人物を登場させる事は出来ないだろう。
ここである視点部門について。『少女と夏の終わり』も『くじらのまち』も自立していない少女が主人公だ。監督は女性だ。過去の自身も少女であっただろうが、身体の軽やかさや衝動性や調和の希求といった少女の持つ独特の魅力を引き出せているのは後者のほうだろう。だが、少年同士のバカっぽいやり取りは前者が長けていた。『はなればなれに』の女の子は突拍子が無い行動や台詞がかわいらしいが、男性に魅力がなく、作品は全体的に散漫としていて、”やりたいことを全部詰め込んだ”という印象。作品としては、せめて色味だけでも芯となるものが欲しかった。『何かが壁を越えてくる』は「これはあっちゃだめだよな」という台詞がひっかかった。震災に対してか、震災後の処理に対してか、被害に対してか、どれにしても「あっちゃだめ」とはどういう意味なのか?併映された『あれから』は途中ホラーっぽくなるシーンが面白かった。だがこういった1人の人物の傷を本人のみで語る(おもに自分の部屋だけで思い出と妄想のシーンが繰り広げられる)ことは、観る者に対しても自意識しか刺激しないのではないだろうか。そう考えると、今回観たある視点部門の作品は、自意識に訴えかける自意識の物語ばかりのように思える。言葉通りに、自意識過剰ということか。『あかぼし』は残念ながら都合上途中で退場せざるをえなかった。少年と母親とその両方のシーンにおいて、同じシーンが反復される(いじめのシーン、並んで歩くシーン、食事のシーンなど)。ループではなく螺旋となって時間とともに変化していく彼らはどこまでいくのか、見届けたかった。
『5月の後』は本当に大きな時間をかかえた作品だった。71年パリ郊外、まだ68年5月革命のくすぶりの中にいる主人公は、自宅で絵画を描きながら、色々な事に参加していく。友人達も同様に、行動する場所や共に過ごす相手を変えながら、少しずつ変化してゆく。劇中で1つの歌が流れるとしよう。ある女性は、その歌が始まる前と終わった後では、もう別人のように(だが秘かに)変化してしまうのである!彼の周りでは女性が、書物が、人物が、仕事が変化してゆく。スクリーンの中からこの世界の謎について呼びかけてくる本作は、スクリーンの向こう側へ消えてゆく彼そのものである。タイトルの一部を持つ自伝的著書『5月の後の青春』は、本作の原作本ではないものの、この作品の持つ広がりゆく時間の一端を掴む手がかりになるだろう。
『5月の後』は、観客から"見られる"ために、今すぐ日本中(あるいは世界中)の映画館のスクリーンへと飛び出そうとしていて、他の何にも置き換えられない、映画でしか叶えられない人生と世界との邂逅を予言している。
映画祭は率直に、映画産業のためのイベントであると言えるだろう。映画は華やかで盛り上がっているというアピールの場である。今回1本も見る事が無かった特別招待作品は、これから公開される作品の宣伝なのだし、同時多発的に上映以外のイベントも開催されている。優れた作品の紹介とひとくくりに語るにはやはり、作品ごとの差が大きすぎた。
だが、映画祭には制作者も多数登壇していた。『サイド・バイ・サイド』を見れば、映画制作者がどれほど真摯に自らの作品に向き合っているかが判る。そうして出来上がった作品を私たちが享受出来る事は、単純に、ひとつの幸運であり喜びなのだということだろう。
今回であえた優れた作品たちが、日本で公開されれば嬉しいと思う。
上映予定
『サイド・バイ・サイド—フィルムからデジタルシネマへ』
2012年12月22日より、新宿武蔵野間、渋谷アップリンク他全国順次公開
関連書物
『5月の後の青春 アリス・ドゥボールへの手紙、1968年とその後』
オリヴィエ・アサイヤス著/彦江智弘訳