『湖畔の2年間』ベン・リヴァース結城秀勇
[ cinema ]
人気のない森に降り積もった雪。その中を歩いて行く男の後ろ姿。それを形作る白黒の粒子、不規則に変化する影のグラデーション。16mmで撮影(そしておそらく監督自身の手で自家現像)されさらに35mmにブローアップされた映像は、粒子の大きさやノイズの乗り方にも関わらず、紛れもなく美しい。もちろんその美しさとは、解像度や輝度や鮮明さといった、いつしか映像の美しさを語るのにあたかも必要不可欠なもののように振る舞い始めた用語とはまった関係のない尺度でのことだ。映画の映像はそんなものと本質的に関係がない。そして、そこに重なるボゴッボゴッという、新雪が長靴によって踏み崩される低い音の圧力。この音がこの映像にこのように乗るということ、そのためにフィルムという物質を媒介としたこと。これほど明白な事実を否定できる論理などどこにも存在しない。
かつて『This is my land』(3分間の抜粋がここ で見られる)で被写体に選んだジェイク・ウィリアムズという人物を再度撮影した、ベン・リヴァースの初長編『湖畔の2年間』には、セリフもなく、ジェイク以外の人間も登場せず、彼の行動の意味が説明されることもない。映画を見れば、そんなものは必要ないとわかる。彼は木を倒し、イカダを作り、しまってあった昔の写真を手に取り、ふとカセットテープやレコードから音楽が流れ出す。監督は「『This is my land』ではまだ知り合ったばかりだったので、被写体との間に距離があった」と語っていたが、『湖畔の2年間』においてはもはやジェイクとカメラだけがーー森や湖、自動車やトレーラーハウスもともにーー、そこに生きているように見える。ベン・リヴァースの作品について海外のレヴューを読むとしばしば散見される「ポスト・アポカリプティック」という単語が示すように、世界はもうすでに彼らを残して滅んでしまったのかもしれない。あるいは映画が発明される以前の過去の動く映像、などという途方もなくありえないものが発掘されたのかもしれない。そんな気がしてしまうほど、この作品には映画が百年以上かけて洗練=分化させてきた、ホラー、SF、西部劇、など数々の要素が未分化のまま、これまで目にしたこともないような強度で息づいている。
「この映画はどんな映画?」という質問には答えようもないし答える気もないが、もし一度も映画を見たことのない人に「映画ってなに?」と聞かれたら、「この『湖畔の2年間』のことだ」と答えようと思う。もしその人が、映画が滅んでしまった未来の人間でも、映画が発明される以前の過去の人間でも。