東横線渋谷ターミナル駅藤原徹平
[ architecture , cinema ]
3月16日から、副都心線と東横線が相互乗り入れし、東武東上線~副都心線~東横線~みなとみらい線が一つにつながった。これで気持ちよく泥酔すれば埼玉県・川越から東京を縦断して横浜・元町中華街まで寝過ごすことが可能になったわけだ。僕は1975年生だが記憶している限り、横浜駅はずっと昔から工事中で、つい先日駅ビルを見上げてみたら半分くらいなくなっていることに気が付いた。詳しい人に聞いてみれば全部解体してから巨大な駅ビルが建設予定だという。不景気とか縮小とかコンパクトシティとかほとんど全部信じられない気分だ。東京首都圏のスプロール化・巨大都市化は今も着々と進行している。果てのない都市改造の欲望エンジンとアジア的な動的世界思想の相性がよほどいいのか、日本ではこの100年にびっくりするほどに都市が変容し続けてきている。都市を変容させつづけるということは、無意識であれ記憶の継承を拒否し続けるという態度表明になる。それは父殺しのような前衛的な態度表明であるかと問えば、少しもそのような意図はなく、模様替えというような軽い気分のようにして、父は「無視」される。都市経験の継承意識を持たない社会が共同体をつくれるわけもないと思うが、反論があるならば我々は一体何を共有することで社会たろうとしているのかと問いたい。もしも変容への欲望を、世代を超えて共有しているのだとすれば、変容の担い手である我々自身が我々自身によって、いずれ自分を「無視」するように仕掛けていることになる。
ところで、副都心線と東横線が相互乗り入れしたことによって、渋谷ターミナル駅はその役割を終えた。恐らく近い将来解体されるだろう。311の後、電力不足不安から渋谷ターミナル駅の広告灯がすべて消え、必要最小限の蛍光灯だけになったときに、僕は初めて渋谷ターミナルができたときの意志に空間を通じて触れた。横浜から乗った電車が渋谷ターミナルに入っていく。カーブをしながら吸い込まれていく大空間の側面の壁はアーチ状の開口があいている。その先には広場あり、広場に面してはかつて東急文化会館が建っていた。思い出せば東急文化会館にはパンテオン(いかにも都市文化を築くぞというロマンの薫る名前だ)という名の巨大スクリーンの映画館があった。ターミナル駅の前に広場があり文化の館がある。そのように都市の経験の骨格をつくろうとした尊い意志があり、それはずっと変わらずにあったはずなのに、潜在化してしまっていて全く経験できなくなっていた。そしてなんとなく、まるで気分転換のようにしてクリアランスされてしまった。もちろんヒカリエや新しい渋谷駅をつくろうというのは並大抵のことではないから、そこには都市の素晴らしい経験をつくろうという意図はあるのは決まっている。
それでも問いたいのは、一世代25年の壁も越せないような都市の育み方、愛し方をしていて、我々は本当に文化を築いていけるのだろうかということである。都市構築への愛は比較して競いあうものではない。僕には、便利さや楽しさの影に「寂しさ」が巨大に横たわっているように感じる。
昨年9月に僕は結婚したのだが、式は山手の丘の教会であげ、披露宴は迷ったあげくにホテルニューグランドの4階にあるスターライトという部屋で行うことにした。迷ったのはクラシカルすぎる場所チョイスがミーハーに思えたからだが、その部屋から見える港の風景(とても良い角度と広がりで港を一望できるのだ)を僕も妻もすごく気に入ったからだ。恩師の梅本洋一さんに招待状を渡したとき、梅本さんはスターライトという部屋が昔はレストランで、父親によくつれていってもらって食べたハンバーグが大好きだったという話をしてくれて、何か時空が温かくつながるような素敵な感覚を持った。
今日、表参道から、渋谷ターミナル駅を経験せずに、馬車道に行った。便利になったのには違いないが、それと引き換えに、都市の記憶を場所とともに失ってしまったことに気づき絶望的な気持ちになった。そしてこのことを話せば何か大切な言葉を返してくれたであろう梅本さんはもういない。底抜けにさびしい。
人はいつか死んでしまうが、都市の記憶は残すことができる。人のコミュニケーションがつくるアーキテクチャには限界がある。梅本さんが横浜の都市の記憶にこだわり続けたことの本当の意味を今ようやく気づいた。都市の記憶を残すというのは人を生かし続けるということに他ならない。どうやら311を経てもこの社会は何一つ変わっちゃいないが、我々には大切だった人を生かすためにやるべきこと、やれることがある。