『オデット』ジョアン・ペドロ・ロドリゲス
田中竜輔
[ cinema , cinema ]
『オデット』は、ペドロというひとりの同性愛者の男の死を契機に、彼の恋人であるルイという男、そして同じアパートの住人であっただけのつながりしか持たない、恋人と別れたばかりのオデットという女を出会わせる。ひとりの男の死を決定的な喪失として生きる男と、一方でその死を自らの妊娠願望を叶えるための新たな出会いとして利用する女。二重の身体という映画の原初的な欲望を原動力とするこのフィルムは、当然のことながら『めまい』の現代的なヴァリエーションを織りなす作品のひとつであるだろう。しかしながらこのフィルムにおいて問題となるのは、たんにキム・ノヴァク的存在を模造することではない。
『オデット』において率直に創造の対象となるのは、ノヴァクを失った世界において存在し得るジェイムズ・スチュアートのふたつの可能性だ。ルイはノヴァク=ペドロの死から逃れようとし、オデットはノヴァク=ペドロの生を追い求める。すれ違う車の中にペドロの姿を目にしてしまうルイ、すでに死んでしまった男と出会うという妄想に取り憑かれるオデット。生を欠いた死に追いつめられる男と、死を欠いた生に魅せられる女、死者に見つめられ続ける男と、死者を見出そうとする女。ひとりの死者だけを交点に、方向性の相反するふたりの欲望が衝突し続けるプロセスがこのフィルムを形成する。
事故死の直前、自分たちの楽曲のリミックス音源をカーラジオで耳にしたペドロは「狂ってるよ」と呟いた。ひとりの男の生をその死後に掻き乱すオデットの振舞い、それはまさしく死者の生をリミックスするという狂気の営みであり、しかしそのような営みとの遭遇においてこそ、ルイは死者=原曲に対する別の視点を創造することができる。ふたりのスチュアートの衝突が、『オデット』に失われたノヴァク=ペドロをようやく見出すことを可能にする。
だがそのことは、ノヴァクがこの世界において絶対的に不在であることを示すものではない。このフィルムは、ルイの「欠損=穴」をオデットが文字通り「埋める」シークエンスにその終わりを刻む。オデットはその「穴」を、いかにして「埋める」ことができたのか? 倒錯的な姿勢で交わりあうルイとオデットを背中から捉えたショットには、その結合部への注視がほとんどない。ペドロとルイの舌と舌の交わりを肉感的に映し出すことに始まったこのフィルムは、しかし最後の瞬間においてルイとオデットの身体的な連なりを偽造することではなく、そこにぼんやりと佇む亡霊を同一のフレームに捉えることを選択する。ふたりの陰茎を欠いた交わりを補完するかのように、ふたりの重なり合わない視線を代替するかのように、この奇妙なラヴ・ストーリーは、目の前の出来事に対するアクションもリアクションも欠いた、物言わぬ亡霊ーー失われたノヴァクーーの庇護のもとにこそようやく実現しうるのだと、『オデット』はそのショットにおいて告白しているように思えた。その亡霊の佇まいは、あたかもひとつのキャメラのようだった。