『小さな仕立屋』ルイ・ガレル結城秀勇
[ cinema ]
この映画の、コントラストの強い白黒で映し出されたパリとそこにいる男女の姿に、父フィリップの影響を見るのはたやすい。テイラーとしての師匠である、二世代は離れた老人と向き合う主人公アルチュールの顔に、『恋人たちの失われた革命』で故モーリス・ガレルとテーブルを挟んで対峙していたルイの面影が重なる。しかしこの作品全体からより強く感じるのは、高名な映画監督を父に持った青年が先天的に継承した演出の遺伝子というよりも、前述の『恋人たちの失われた革命』も含めた、自らが出演した作品のひとつひとつから映画作りを学んだひとりの俳優監督、という印象だ。フィリップ・ガレル、ベルナルド・ベルトルッチ、クリストフ・オノレ、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ……。そうした名前の影が頭をよぎっては消えていくが、『小さな仕立屋』を見終えた時に、その名前のどれかひとつだけが残っているということはない。この映画の中盤で、レア・セドゥの顔を各パーツへと分断し、再構成するというシークエンスがある(そして最後に彼女のナレーションによって再び繰り返される)が、レア・セドゥという女性の顔の魅力はひとつひとつのパーツの美しさというより、そのパーツの配置によって間に生まれる皺や襞にあると個人的に思う。同様に『小さな仕立屋』という作品自体もやはり、様々な要素が折りたたまれ、継ぎ合わされた間に生まれたプリーツやドレープが魅力なのだと言える。
というのも、おそらく彼の出演作のどれにも似ていない要素を、この作品が中心に抱えているからだ。この映画はとても急いでいる。舞台の時間、約束の時間に向かって登場人物たちは画面の中を駆け抜け、心臓が常軌を逸した速度で鼓動する。そしてこの速度は、登場人物の振る舞いや状態を越えて、作品全体に定着している。その参照軸としてヌーヴェルヴァーグを引き出すことはできるのだろうが、私たちがいまここに見るべきなのは両者の近しさよりも、このふたつの性急さの間に横たわるなにか決定的な違いのような気がしている。
アルチュールはパリの中を駆け抜け、舞台の上映時刻に間に合う。だが「舞台は劇場で見るものだから」、監督は観客に登場人物が見たはずの劇を見せない。私たちが見るのは、その時彼が決して見ることがなかった光景だけで、それは同時にもし彼が舞台に間に合わなかったならば見たであろう光景なのだ。それと同様に、この作品のバッサリと断ち切るようなラストは、わずかな遅れによって彼がなにかに間に合わなかったこと、それと同時にその遅れのために別のなにかには間に合ってしまったこと、その双方が絶妙に配合された混合体としてある。ルイ・ガレルの性急さは、一見なにかに間に合ったり間に合わなかったりすることに掛け金があるようだが、実はある地点を過ぎれば決定的に生じてしまう「間に合う/間に合わない」という分化の手前に留まり続けることを試みているのではないだろうか。来るべき長編が待ち遠しい。