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April 21, 2013

『コーヒーと恋愛』獅子文六
渡辺進也

[ book ]

 ある日、欲しい文庫の新刊があって、本屋に立ち寄ったら、その本のちょうど横に、獅子文六の本が平積みされているのを見つけてしまう。
 獅子文六の名前は、『特急にっぽん』、『自由学校』、『大番』など映画の原作者として親しみはあるが、これまで、ついぞ読もうなどとは思ったことなどなかったのに、そのタイトルに惹かれて読み始めてしまうと、もうそのシャレた軽さに、イチコロになってしまったのである。
 
『可否道』のタイトルで、読売新聞に、連載されていたのが、昭和37年の11月から翌年の5月まで。『コーヒーと恋愛』は、中年サラリーマンの細君とか、薬屋のおかみさんとか、好人物のオバサン役としてテレビドラマに出演する新劇上がりの女優が主人公である。彼女は決して美人などではなく、演技も上手いとは言われないが、親しみを感じさせることもあり、お茶の間のご婦人たちに幅広く人気がある。 
 そして、この小説の主人公には、誰にも負けない特技があって、コーヒーを入れるのがバツグンにうまいのだ。この本からその部分を引用すると次のようになる。


彼女の入れたコーヒーは、まったくウマい。色といい、味といい、香りといい。絶妙である。(中略)生まれながらのコーヒーの名手である。世間も、それを認めている。東京のコーヒー通五人が集まって、可否会というのを結成しているが、彼女は、その同人の一人である。
(P10)


 しかし、ある朝、彼女が入れたコーヒーに異変が起きる。誰よりも、彼女が入れるコーヒーのファンである、夫の口から「まずい」と発せられるのである。彼女は、これまでそんなことを言われたことはなかった。飲んでみれば、実際にまずいのである。お芋の皮の焦げたような、においまでする。いつもと同じように入れたのに、関わらずである。追い打ちをかけるように、夫の口から、夫の浮気を疑いながら、入れたのではないかと言われる。それが図星なのである。
 たかがコーヒー、されどコーヒー。コーヒーの味ひとつで、夫婦の間に亀裂が走り、コーヒーの腕前一つで、また別の恋愛が始まるのである。
 
 読んでいると、会話部分に比べて、地の部分がだいぶ多い。人物たちの心情、彼らの住む家やテレビ局など場所の描写、彼らの動作から、コーヒーの蘊蓄まで。こと細かに書いてある。その句読点の多い文章は、読んでいて、非常にリズミカルである。そして、書いてあることが、シャレていて、軽いから、読んでいて、小躍りしたくなる。
 この本で、好きな一節を紹介してみよう。まずは、可否会の会長である、菅が、茶道に倣って、コーヒー道をつくろうと考えている場面。引用が長くなってしまったこと、ご容赦を。
 
 
現代のコーヒー愛好者は、ミーチャンもハーチャンもいるけれど、真にコーヒーを愛するものは、日本のインテリである。インテリも、頼りない種族といえないこともないが、コーヒーに関する限り、不眠を怖れず、胃散過多を顧みず、率先して、果敢な飲み振りを示した。コーヒーぎらいのインテリというのは、見たこともないくらいで、日本で最初にコーヒーを飲んだという太田蜀山人も、当時の代表的インテリだった。もっとも、この間死んだ永井荷風なぞは、コーヒーに山盛り五ハイぐらいの砂糖を入れたというから、コーヒー・インテリとしては、下の部であろう。
(中略)外国では、お百姓さんも飲むコーヒーを、日本では、インテリが率先して飲むというのは、特異現象であるが、鎌倉時代のインテリーー坊主や武士も庶民の飲まない茶というものをたしなみ、それが発祥となって、後の珠光や利休の茶礼の大道が展けた。コーヒーも、今や、よく似た発展過程をとっているので、しかも、鎌倉時代は、すでに終り、室町から織豊時代に移らんとする、情勢なのである。
「茶道は、立派なものだが、いかんせん、もう古い。現代の生活芸術たるを得ない。そして、茶に代るものは、無論、コーヒーだ。コーヒーこそは、新しい茶であり、コーヒー道は、日本において誕生すべきものだ……」
(P86-87)


 無駄に過剰な蘊蓄、そして、会長のコーヒーに対する熱意が、感じ取られるでしょう。川島雄三が、獅子文六原作で、二本も映画をつくっているのに、すごく納得するでしょう。
 さらに、可否会の会合でインスタントコーヒーの是非について会員同士が議論しているときの、会長の台詞がイカシてる。地の文章だけでなく、会話部分もシャレてるのである。


「(前略)例えば、わが国の民主主義ーー敗戦によって、一夜漬けのものが押しつけられました。つまり、インスタントです。しかし、それを飲み慣れてくると、次第に、不満が起きてくる。そして、真の民主主義とは何物かであるかという疑問と、要求とが、起りつつある。これは、喜ぶべきことでありまして……」
と、中村が、穏健なことをいい出すと、菅会長が、途中から、
「コーヒーも、民主主義も、即製はいかん!」
と、吐き出すような一言を、発したので、一同、大いに笑った。
(P95)


 全編に渡ってこういう調子なので、興味のある方は是非、全てを読んで堪能していただきたい。
 そんなシャレた台詞と文体に、話の展開も奇想天外なので、まるでその当時の日本映画のコメディを思い出す。
 読んでいるとき、それぞれの登場人物に、特定の俳優を当てはめてみると、すごく愉しい。僕の場合だと、主人公の坂井モエ子は月丘夢路(ちょっと美人すぎるか)で、可否会の会長は森繁久彌。可否会の会員は小沢昭一とか、桂小金治。舞台となるのは明治21年に「可否茶館」という名で日本で最初にコーヒー店が開業されたという下谷黒門町か、あるいは銀座か神保町あたりで監督はやっぱり川島雄三でしょう。
 
 最後に、後書きを曽我部恵一さんが書いていて、そこでこの小説と同名の曲をつくっていることを知った。ネットで歌ってる動画をみた。その中にこういう一節がある。
 コーヒーと恋愛が共にあればいい
 だけがあればいい、でも、があればいい、でもなくて、共にあればいい、という慎ましやかなフレーズ。この本を読んだ後では、このフレーズもいろんな意味に受け取れる。
 僕は家でコーヒーを飲まないので、飲むのはもっぱら喫茶店だけれども、良い喫茶店はそこにいるだけで、心が落ち着く。あと、恋愛しているときは、コーヒーというか喫茶店という場所がつきものだ。だから、このフレーズ大いに賛同するのである。