『女っ気なし』ギヨーム・ブラック増田景子
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「この男、まじで女っ気ないな」と確信したのは、食べ方からだった。ふたについたアイスクリームまできちんと指でなめ、いちごに見えなくなるほどスプレークリームをかけたその上にざらめをかけて食べる。どうやら彼に気があるような若い女性も、そのいちごの食べ方を前に「いつもそんな風に食べているの?」と一瞬引いていた。こんながりがりと音を立てて(ざらめのせいだ)いちごを食べるような奴が女にもてるわけがない。「女っ気なし」という形容がぴったりすぎて、笑わずにはいられなかった。
いや、同じシルヴァンという男(ヴァンサン・マケーニュ)が『女っ気なし』前に上映された『遭難者』でも登場するのだが、彼が客人にふるまったトマトソースのリゾット?のねっちゃねちゃ感ですでに、『女っ気なし』を見る前から、彼に女っ気がないことを確信していたかもしれない。かき混ぜるだけでねちゃねちゃ音をたてるそれは、いくら「ソースが最高」と褒められようが、美食からほど遠い代物だった。
というか、この映画はこの男の「女っ気なし」具合をジェンガのようにひたすら積み上げていると言ってもいいかもしれない。手の握り方からポロシャツの着方まで、一挙一動が「女っ気なし」の説得感をもって描かれている。
このジェンガのプレイヤーはヴァカンスに来た母娘だ。つぎつぎと男を手玉にとっていく『夏物語』(96)のメルヴィル・プポーの女版のような母親(ロール・カラミー)と『緑の光線』(85)のマリー・リヴィエールのようにセンシティブな娘(コンスタンス・ルソー)。このふたりによって、シルヴァンの「女っ気なし」が高々と積み上げられていく。もちろんこのジェンガは彼女たちのヴァカンスが終わる前に崩されるのだが、ヴァカンスではなくその場所が日常であるシルヴァンのジェンガは彼女たちが立ち去ると同時にまた積み上がっている。そこがまた「女っ気なし」だということは言うまでもない。
そこがロメールのヴァカンス映画とは違う部分ではないだろうか。ロメールはあくまで「ヴァカンス」を描いているが、ギヨーム・ブラックの『女っ気なし』はヴァカンスをもてなす人間の「日常」を描いている。「ヴァカンス」には終わりがあるが、「日常」に終わりはない。ロメールの映画ではヴァカンスの終わりになんらかのケリがついているが、ブラックの映画では崩れたジェンガはいつでも再開できるようにすぐ元に戻さねばならない。観客に彼女たちが去った次の日も彼が同じようにいちごを食べると思わせねばならないのだ。
また同様の理由で『女っ気なし』で、ロメール映画を思わせる美しい陽光に包まれてはいけない。晴れることを忘れてしまったようなどんよりとした曇り空こそ、この映画にふさわしいのである。