『遭難者』(仮)『女っ気なし』(仮) ギョーム・ブラック代田愛実
[ cinema , sports ]
パリの友人の評判通り、とても面白い作品だった。個性があり、次の作品も見たいという欲求に駆られる監督の発見に、胸を躍らせた。
撮影された土地への愛着、友人を起用したキャスティング、撮影時ちょうど孤独を感じる時期だったという監督、季節や時間帯で変化する光と、脚本に書かれていない役者の突発的なアクションを大切にする姿勢・・・それら全てがこの2作品で成功している。時間を長く取る/切り取るといった配分が絶妙で、主要登場人物のキャラクターの不明解さから、次のシーンで起こる事への期待が高めさせられるのだが、次のシーンはその期待を裏切らない。意外性があり、納得もでき、更に次のアクションを期待させ、後の出来事の導線としても役立っているのだ。
また、シルヴァンという、監督の分身でも、演じるヴァンサン・マケーニュでもない、不思議な人物の、人を惹き付ける力は何だろう。愛さずにはいられないキャラクターである。『遭難者』での一見サイコなんじゃないかと疑う登場シーン、オタクでもなく、問題を抱えているわけでもない、自称ロマンチストのハゲのあるデブ。ただ、人に止められなければお菓子を全部食べてしまうくらい甘党なだけ。この人物をギリギリ気持ち悪くなく演じたヴァンサン・マケーニュは、今やフランスで引っ張りだこの俳優だそうだ。
フランス映画祭のティーチインで、監督はムーミン——シルヴァンの家の冷蔵庫にはムーミンシールかマグネットが貼ってあったようだ——が監督自身に大きな影響を与えたと告白した。ムーミン谷の、平和だけれど寂しい感じだとか、ムーミンパパやムーミンがあんなに大きなお腹を抱えておどけた顔をしているのに、冒険者や孤独な旅人に憧れていて、しかも実践しようとする(そして失敗する)様を思い出すと、まさにそれは撮影された土地と、シルヴァンという愛すべきキャラクターとに通じる点がある。
どちらの作品でも、男がボロ泣きするシーンがある。『遭難者』の主人公リュックは、フィアンセの傍らで、宙空を見据えて涙を流す。『女っ気なし』の主人公シルヴァンは、女性2人と車に同乗しながら、ひとり涙を流す。どちらも、瞳から涙をジョロジョロと流す。
男性の涙は、何かに破れた時の悔し涙や、親族や友人の死を前にした時の涙の他には、なかなか目にした覚えが無い。こんなにも漠然と、周囲の女達の存在をよそに泣くなんて・・・と衝撃を覚える。
『女っ気なし』の原題は、Un monde sans femmes(=A world without femmes)だが、女っ気があろうとなかろうと、男性には、女性のない世界、女性が居ない方が良い、女性に踏み入れられたくない、そんな世界を持つのだ——それを持つが故に男性なのである——と言っているようであった。孤独を恐れながら、解放されたいと願うこと。自転車や甘いクリームが与えてくれる喜びと違って、やっかいな、女性の与える喜び(そして苦しみ)。女である私は、愛憎混じったその感情表現にちくりと胸を締め付けられる。「女なんて居なければいいのに!」というジレンマが引き起こす突然の涙に、女達は置いていかれるのである。
ムーミン谷の男性陣もまた、時折、自分たちの独特の世界=Un monde sans femmesを表に出してみせる。そして女性陣を怒らせたりするのだけれど、時間が経って、あるいは別の事件の発生によって、男女がまた仲を取り戻す。その繰り返しの物語だ。
いずれシルヴァンにも、そんな日々が来るのだと期待してみよう。最もムーミン谷っぽい、”ガタイのいい”マダムだって、運命の人と出会っているのだから!