『3人のアンヌ』ホン・サンス
隈元博樹
[ cinema , cinema ]
『3人のアンヌ』は映画学校に通うウォンジュ(チョン・ユミ)が、短編のシナリオを書くことからはじまる。だけど彼女が黄色い小さなメモ用紙に書くシナリオは、映画学校の課題でもなければ、プロデューサーを説得するものでもない。借金取りから逃れるために、彼女は民俗学者の母(パク・スク)と海辺の街モハンへ逃れてきたらしく、シナリオを書きはじめたのは、このことに対する腹いせだという。「それでこの映画ははじまってしまうのか!」とツッコミたくなる気持ちを抑えつつ、ここでは彼女がシナリオを書きはじめるという行為こそが、この映画のはじまりだ。
ウォンジュは、フランス人のアンヌ(イザベル・ユペール)に関する3つのシナリオを書くことになる。言葉も瑣末な英語しか通じない異国の地でのひととき。そして合言葉は「I don't know」。アンヌはつねに灯台を探し、そしてライフガード(ユ・ジュンサン)と出くわす。身にまとった衣装は異なるけれど、同じような場面展開やフレーミングを繰り返しつつも、そこには見事な差異が生まれる。借金取りへの腹いせといった当初の口実は影を潜め、反復とズレを生み出す試みこそがアンヌという女性のあらゆる様相を捉え、ライフガードをはじめとした周辺人物たちの機微をも軽やかに提示していくことになるのだ。
『3人のアンヌ』とは、それぞれが独立に構成されたシナリオではなく、シナリオからシナリオが生まれた映画なのではないだろうか。それは核である状況や配置、人物は軸に据えたまま、シナリオがシナリオを生み出し、そこで生まれたシナリオどうしのめぐり逢いによって成立する映画ではないかということだ。赤いワンピースのアンヌについてのシナリオは、直前に書いた青いシャツのアンヌのシナリオの推敲であり、緑のワンピースのアンヌについてのシナリオは、青いシャツもしくは赤いワンピースのアンヌについてのシナリオの推敲だとすれば、物語そのものが要する互いのめぐり逢いを享受し続けていくために、ウォンジュはシナリオを書きはじめたのではないだろうか。
物語そのものから新たな物語が生み出されていくと同時に、物語と物語との間をさらに横断しようとする映画。ウォンジュがシナリオを書いた最大の動機とは、毎度のごとく海辺へ散歩に出かけるアンヌへ雨傘を手渡したように、物語と物語との横断を促し、それらの閾をシナリオの閾から広げて見せることだ。そしてウォンジュ、あるいはホン・サンスはこれからもシナリオを書き直していくのだろう。なぜなら彼らは、さらなる物語と物語とのめぐり逢いを求め続けていくにちがいないからだ。
シネマート新宿他にて全国ロードショー中
(続きは、7月中旬発売のnobody issue 39にて)