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November 25, 2013

『悪の法則』リドリー・スコット
高木佑介

[ cinema , cinema ]

 もちろん、『ノーカントリー』(07)をすでに見ている者としては、リドリー・スコットの手によるこのコーマック・マッカーシー脚本の映画に少し物足りなさを感じもするが、それでもとても面白く見た。麻薬ビジネスに足を踏み入れた野心溢れる弁護士=カウンセラー(マイケル・ファスベンダー)の転落と、彼が支払うその代償。この物語は、たしかに色気あるさまざまな登場人物たちが交錯するものの、ほぼそれだけしか語っていない。「お前はまだこの世界のことをよくわかっていない」と、共謀者であるハビエル・バルデムやブラッド・ピットに事あるごとに何度も念押しされていたのにも関わらず、不用意と言うのも憚られるほどの些細な過ち――往々にして、悪況へと至る「ことの次第」の始まりは小さな歪から生まれるものだが――から、彼は手にしていたものすべてを失ってしまう。「この世界は理解し難い」という、『ノーカントリー』のベル保安官の諦念混じりのあの呟きが木霊してくるかのような、その「理解し難い」、あるいは受け入れ難い状況に陥っていく弁護士は、ただ悶え苦しむばかりで何もすることができない。長年そのビジネスに手を染めているらしい仲買人の男(ブラッド・ピット)は、急転する状況に慌てる弁護士に言う。「いつかこうなることは前からわかっていた」。

 『ノーカントリー』『ザ・ロード』(09)、そしてこの『悪の法則』と、近年映画化されてきたコーマック・マッカーシーの原作ないし脚本作品にはどれも、登場人物や観客/読者たちが「なぜ?」と問うことを拒むような、物事の秩序というものがあった。生死を賭けたコイン・トスを強いる殺人鬼シガーとの邂逅に象徴されるように、対峙者はその唐突な賭けを拒むことも出来ないままコインの表裏を答えざるを得ないような、「こうであるしかない」世界というものが揺るぎなきものとしてあり、そしてその世界は「理解し難い」深淵の闇や悪をつねにすでに内包しているものだった。世界がすでに崩壊しているか(『ザ・ロード』)、あるいは、「いつかこうなること」が前からわかっていた世界であるか(『悪の法則』)は、単に時間軸上の些細な「時差」程度の違いにすぎず、この書き手が紡ぎ出す物語群には、ごく単純にこの世界はそもそもクソであるという通念が一貫してあり、それは時として、つねに事件に遅れてやってくる存在であったベル保安官の「諦念」や、『ザ・ロード』の父――彼は自分と息子に言い聞かせるように「take a look at」という言葉を口にする――が絶望の逃走線として抱こうとしていた「倫理」として表われていたはずだ(だから、今回の物語のとりあえずの発端となる麻薬の荷が、文字通り排泄物によって覆い隠されながらトラックで運ばれていくのは、齢80歳を迎えた爺さんのジョークみたいなものだろう。銃撃戦で空いた穴から砂漠とは不釣り合いなほどに瑞々しいクソが漏れ出すシーンまで律義にある)。

 とすれば、そもそもの始まりからしてこの物語の登場人物たちすべての首には、作中に登場する「ボリート」と呼ばれるワイヤーで首をキリキリと絞めつける脱着不可能な装置が懸けられているかのようだ。問題は、目に見えるかたちでこの装置を首に取りつけられるある人物のように「Fuck you」と叫びながら取り外そうと試みるか、もしくは自身が陥った状況を認め、それが決定的に首に食い込むまでの時間をどう待機するのか、ということであり、この作品でコーマック・マッカーシーが書いた人物たちが辿る道筋は、その二極に分かれている気がする。リドリー・スコットの前作『プロメテウス』(12)では、意気揚々と宇宙の遥か彼方を訪れて、「想定外」の結果として酷い目に遭う人々が大袈裟に描かれていたが、今作では、せわしないカットバックが展開する前半から、後半にかけて次第に画面から無駄なものが省かれていき、不条理とつねに隣合わせの秩序あるマッカーシー的な「こうであるしかない」世界と映画そのものが親和していくかのようだった。蛇足だが、弟のトニー・スコットがヴィンセント・トーマス橋から飛び降りたのは、この映画の撮影期間中のことだったという。


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