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November 27, 2013

『フラッシュバックメモリーズ 4D』松江哲明+GOMA&The Jungle Rhythm Section@立川シネマ・ツー
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

『フラッシュバックメモリーズ 3D』は見逃してしまっていた。だから『フラッシュバックメモリーズ 4D』が、3Dヴァージョンからどう変化したものなのかということは(特に音響の側面において)言えない。けれども今のところ二夜限りのこの「作品」に圧倒され、そして感動した。なぜなのだろう。まだ全然まとまっていない考えを、ひとまず言葉にしてみようと思う。ここには、現在の映画をめぐっての、そして現代の上映をめぐっての重要な問いがあるような気がしてならないのだ。


『フラッシュバックメモリーズ 3D』の3D形式における方法論はとてもシンプルだ。この作品は「飛び出す映像」のアトラクティヴな側面にさほど執着していたようには見えない。それよりも積極的に試みられるのは、映像を明白に複数の層に分けること。ごく単純には、手前側にこのフィルムのためのライヴ演奏をするGOMA&The Jungle Rhythm Sectionを映し出し、そして奥側にそのライヴ演奏よりも過去のGOMA(この作品の中で十全に語られることだが、GOMAは2009年の交通事故で高次脳機能障害を負い、過去10年間ほどの記憶が欠落し、事故後も記憶が定着しないという症状と闘っている)をめぐる様々な写真・映像記録に加え、GOMA本人やその妻の手による日記、事故後に突然描き始めたという点描画が配置される。
このフィルムで私たちの目に最も迫り寄るのは、GOMAの演奏するディジュリドゥの先端部。この長い筒状の楽器の発声部は、ちょうど遠近法における無限遠点を裏返した点のような存在感を有している。このフィルムに対する私たちの視覚の中心でありながら、同時に決して触れること/見ることのできないGOMAの奏でる「音楽」、それ自体を可視化するような「点」をかたちづくるものと言えばよいか。「現在」としてのライヴ演奏と、その背後にある無数の「過去」の集積は、この楽器を覗き込むような私たちの視線において結び付く。『フラッシュバックメモリーズ 3D』は、無数の「記録」から「記憶」を掘り起こし、あるいは見出すという試みを、この特徴的な楽器を媒介として、観客ひとりひとりに託しているように見える。


前置きが長くなったが、『フラッシュバックメモリーズ 4D』は、『フラッシュバックメモリーズ 3D』の上映に併せて、GOMA&The Jungle Rhythm Sectionがスクリーンの前で生演奏を行うというものだ。先述したように「過去」が視覚的に重層化されたこのフィルムに対して、この上映は決定的な「現在」という時制を導入するという実験を織り成している。現在(=ライヴ)、過去(=映像の中のライヴ)、大過去(=ライヴ以前の様々な記録)、その3つの時制が一度きりの上映において結びつけられる、そんな体験がここにはある。
この試みにおいて「現在」という時制がたんに加えられるという表現もまた正しくない。なぜなら『フラッシュバックメモリーズ 4D』では、GOMA率いるバンドの生演奏が加えられた代わりに、すでに記録されたそもそものライヴの演奏が、映画から完全に取り除かれているからだ。つまり、ここにははっきりと失われたものがある。ぽっかりと抜けた過去がある(そして3D版を見逃している私はそのことを知覚することができない)。


上映後に開かれたトークショーの中で、このフィルムの整音を担当した山本タカアキとGOMAが語るには、この日の演奏をつくりあげるにあたって、まず何よりも必要だったことは、すでに映画に収められた演奏を分析することだったという。2011年に収録されたこの演奏の様態は、すでに現在のGOMA&The Jungle Rhythm Sectionのプレイスタイルとは誤差を生じたものであり、何も準備なく演奏することはできない。だからこそ、まずはかつて収められた演奏を徹底的に聴き直す必要があったのだ、と。
スクリーンの中に観客を欠いたライヴを行うバンドの映像があり、スクリーンのすぐ下に演奏をする現実のバンドの姿がある。その動きは大きく異なることもあれば、ほとんどシンクロしているのではないかと思うほど近接することもある。永遠に同じものであり続ける「映画」に、しかし異なった何かを新たに導入するために、「過去」をそれ自体としてではなく、別のかたちで再演するという試みがここにはある。重要なことは、現在や過去の区別ではなく、それらが相互に関係したものであるということのほうだ。
GOMAは「僕だけがどの時間軸にも属していないような気がする」と、自らの記憶障害について日記の中で記していた。もちろんそのことは彼自身の苦悩として吐露されたものではあるだろう。けれども、『フラッシュバックメモリーズ 4D』はその言葉を、決定的にポジティヴな可能性として私たちに実感させる。現在や過去やそのまた過去がある、その区別は確かにある。けれども、そのどこにも自らを属させずに、その境界を越えて積極的に乗り継ぐことこそ、わたしたちの生に隠された可能性なのではないか。そして映画とは、そのような試みをわたしたちに可能にさせてくれるものなのではないか、と。


こう言ってみたい。『フラッシュバックメモリーズ 4D』における演奏とは、まさしく『フラッシュバックメモリーズ 3D』に対する最良の批評である、と。ひとつのものを、同じものとして、しかしべつのやり方で語り直す作法として批評があるのならば、映画を演奏=上映することのヴァリエーションを生み出すこの試みは、疑いようのない批評であるはずだ。もちろん、この『フラッシュバックメモリーズ 4D』がきわめて例外的なケースであるということは否定できない。が、ここには、たとえば樋口泰人の手がける爆音上映と同様の、現代の「映画」と「上映」をめぐる本質的な問いが、確かに潜在している。そのことをより多くの人が実感できる新たな機会を期待するとともに、引き続きこの上映をめぐって考え続けたいと思う。