『あすなろ参上!』真利子哲也結城秀勇
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愛媛県松山のご当地アイドル「ひめキュンフルーツ缶」と愛媛のゆるキャラたちを起用し全編松山ロケにて製作された『あすなろ参上!』という全6話のドラマを見た素朴な感想は、松山ってほんとにいいとこそうだな、ということである。
その「いいとこ」そうな感じはどこからきたものなのか。一話目のオープニングを彩る『坂の上の雲』的な雰囲気の映像からくる、歴史ある街な感じかといえば、そうでもあるがそれだけではない。梅津寺の海岸の景色のような風光明媚な感じかといえば、そうでもあるがそれだけではない。また撮影に全面的に協力してくれたという銀天街のように、小さな共同体が確かな力を持っている感じに由来するのかといえば、そうでもあるがそれだけではない。そうした事柄のなにかひとつが特化して素晴らしいのではなく、それぞれがそれぞれに別のレイヤーとして存在することこそが「いいとこ」そうなのであり、それはノスタルジックな街の理想像のようなものとは全然違うし、ましてや未来的なユートピアなんかでもない。そんな手が届かないいつかのどこかの話ではなくて、監督自身の言葉を使えば「ちょうどいい」感じに、どれかが支配的なわけではなく、矛盾することもなく存在する数多くのレイヤーを同時に透かして見て取ることができること、それが少なくとも『あすなろ参上!』という作品で描かれた松山という街の魅力である。
以上のことは、この作品のストーリーともあながち無関係でもない。商店街にアイドルが存在するのとほとんど同じレベルで、まるでRPGでモンスターと遭遇するくらいの頻度でゆるキャラと出会ってしまうこの作品内の松山が、なにかファンタジー的な世界観に裏付けられている空間なのかというとそうではなくて、キグルミでできたゆるキャラの内部にはやっぱり「中の人」が存在するのだということが明瞭に示されている。しかしそのことが彼らの住む世界になんらかの破綻をもたらすことはない。同様にアイドルという存在もまた、確固たる不動のアイデンティティを備えたキャラクターなのではなくて、「解散宣言」によって簡単にアイドルではなくなってしまう少女たちなのであり、またそこから再び「アイドルになる」ことを自ら意志する存在なのである。彼女たちもまたアイドルであってもなくても別にかまわない存在なのである。ここでは、ゆるキャラというファンタジーを成立させるための秘密として「中の人」が存在しているわけではなく、人前に立ったアイドルというファンタジーを成立させるための秘密として彼女たちのアイドルではない時間が存在するのでもない。
アイドルのパフォーマンスに生演奏を付けているところが「ひめキュンフルーツ缶」の魅力であると言い、アイドル=伴奏者=観客のレスポンスの関係性を「三位一体」と呼ぶ監督の言葉から伺えるのは、陳腐な平等主義などではないそれぞれに違った者たちの共存の可能性である。その「三位一体」と同様に、この作品におけるゆるキャラの力は、ただのガワに過ぎないキグルミ本体とそれとはまったく無関係に存在してしまう「中の人」との共闘にこそあるのであり、アイドルの力は、アイドルである「アスナロA」と二重化されたアイドルでない「アスナロA」との共闘にある。ステージに立つために、素顔も見えず踊ることもできないゆるキャラ「ゆるきゅん」の中に入ってしまった後輩アイドルグループを「アスナロA」のメンバーが否定するのは、それが演奏者や観客たちというアイドルではない人々との共闘関係を隠蔽してしまうからなのであり、同時に彼女たちをアイドルとして輝かせるために絶対に必要な「アイドルではない彼女たち」の存在を秘密裏に隠蔽してしまうからである。
そうした人やものや景色によって構成される『あすなろ参上!』の松山はやっぱり「いいとこ」そうなのであり、多少大げさに言えば美しい。逆に言えば、ゆるキャラの存在を保証するために「中の人」を「秘密」として担保すること、アイドルの存在を保証するためにアイドルでない時間を「秘密」として担保するような共同体は、間違いなく醜い。異なる水準にあるもののどれかを「秘密」にすることによって成り立つ世界が「美しい国」であろうはずがない。『あすなろ参上!』の松山にはそうした秘密などなにもないし、アイドルやゆるキャラの愛らしさや強さは、そのような秘密によって裏付けられるようなものではない。
とまあいろいろ書いたが、いつか梅津寺に「世界一うまいみぞれかきごおり」を食べに行ってみたいと思わせる、それだけでもやっぱり松山はいいとこそうなのである。