『A touch of sin』ジャ・ジャンクー増田景子
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ジャ・ジャンクーは「世界」を描こうとしている。それは世界名所を寄せ集めた「世界」を舞台にした『世界』だけに限らず、ノイズを編集し、記憶を再構成することで「ある物語」だけではなく、その物語が置かれている土台の「世界」までもカメラに収めてきた。2013年の新作『A touch of sin』では、新聞の三面記事から着想を得たという、中国各地で起きた貧困をめぐる大なり小なりの4つの犯罪を描く。
驚くべきはこの映画の文体だ。この異なる4つの犯罪を描くのに、どれも極端にフォーカスを絞ったカメラを使用している。約2時間の上映時間のなかで画面全体にピントが合うことはほとんどない。人物にピントを合わせると背景がぼやけ、背景にピントを合わせると人物がぼやける。群衆をクローズアップするときですら特定の人物だけにピントを合わせることで、他を背景にしてしまう。取り立てて特徴がない1番目の男も、彼にだけピントが合っているため群衆に紛れ込んでしまうことはない。
かつて『海上伝奇』(10)のレヴューで街の雑音が編集されていることを書いたことがあったが、そのようにして作られた音の層を「聴覚的奥行き」に加えて、今回の『A touch of sin』における極端なフォーカスによる効果を「視覚的奥行き」、つまり二次元のスクリーンのなかにあからさまに手前と奥を設けることで第三の軸を生じさせているのである。もちろんこの「視覚的奥行き」も3D映画に比べれば雲泥の差であるが、単純な構造だからこそ、画面から描くべき人物(物体)をくっきりと浮き上がらせ、明瞭に事件を描写していく。
さらにピントを当てる対象を後景から前景へ、もしくは同じ列に並ぶ別の人物へ移すというように視線を誘導しているため、ショットを割ることもなく、カメラを大きく動かすこともなく、ワンショットのなかでともすれば観客が気づかぬほどスムーズに画面の主語を移行させている。
この円滑さが特に際立つのは4つの出来事のつなぎ目である。4つの出来事はそれぞれ独立しており、「貧困」以外は関連性がないのだが、それをジャ・ジャンクーはただ単に羅列させるのではなく、ふたつの出来事を語る始点と終点の同一空間にし、ピントを合わせる人物を移すことで、同じホームでの電車の乗継ぎのようにスムーズに次の物語へと移行していく。先ほどまでフォーカスしていた人物からピントが外され背景になるのが、ひとつの物語の幕引きであり、新たな物語の幕開けでもあるのだ。
どうしてこのような構成で映画をつくろうとしたのか。これを探ることは「世界」を描くジャ・ジャンクーが今「世界」をどう捉えているかと自然とつながっていくはずである。この強引ともいえてしまう、ピントによる誘導つきの明瞭な語り口調は、出来事の情緒を盛りたてるのではなく、逆に情緒的なものを切り捨てて何がどう起こったのかという事実を強調するかのような客観性をもつ。例えば、2番目の男が行う強盗殺人の最中に彼の貧しさが顔をのぞかせることはない。漠然とした大金ではなく、必要額を持っていそうなカップルにだけ狙いを定め、慣れた手筈で難なく襲い、何食わぬ顔で雑踏のなかに姿をくらます。
この事実だけを述べる淡々とした口調はまさに彼が着想を得たという新聞の三面記事の文体に似ているといえないだろうか。客観的な書き方がかえって読み手の想像力に働きかけてくる文体に。こうなると物語と物語のつなぎも記事と記事が隙間なく並べられている新聞の組みを模したものに見えてくる。
ジョニー・トーは『奪命金』で人々を発狂させる株式を題材としていたが、ジャ・ジャンクーは株式や殺人など個々の出来事ではなく、それらが並んで掲載される新聞、特に三面記事に描くべき「世界」を見出したのではないのだろうか。