最高の映画作家、ジャン・グレミヨンステファン・ドゥロルム
[ cinema , sports ]
第17回「カイエ・デュ・シネマ週間」
ジャン・グレミヨン特集:2014年1月17日(金)~2月2日(日)
フランス新世代監督特集:2014年2月14日(金)~2月16日(日)
@アンスティチュ・フランセ東京
ジャン・グレミヨンの著作や言葉を出版することは、
彼が映画の伝道師であり、理論家であったことを明らかにするだろう
呪われるとはどういうことなのか? それは自分のことについて他のいかなる言い換えも不可能なように、決まり文句が永遠に書き続けられることである。呪われること、そのことによって、他の者たちは繰り返しを余儀なくされる。だから繰り返し言うべきだろう、呪われた存在の中で最も偉大な存在、それはジャン・グレミヨンであることを。しかしながら2002年にシネマテーク・フランセーズでレトロスペクティヴが開催されるという名誉を得たにも関わらず、劇場の4分の3が空席であり、その後、彼の言葉や記事が出版されるも(*1)、まったくと言っていいほど関心が向けられることがなかった。ポール・ヴェッキアリが著した事典(*2)の中で30年代における偉大な映画作家としてグレミヨンを一番上に据えるのは、決して俗物根性からではない。ヴェッキアリは正しいのだ。これまでで最も美しいフランス映画作品を挙げるならば、必然的に『愛慾』(1937)と『この空は君のもの』(1943)がそこに入るだろう。もしサイレントにまで遡るなら、すばらしい『燈台守』、そして(ラングロワの言葉を借りれば)「詩的レアリスム」のムーブメントを作り出した元祖、そしてトーキー映画で最初の成功を収めた『父帰らず』(1930)も挙げられるだろう。50分のバージョンしか現存していないにも関わらず『混血児ダイナ』のすばらしさには仰天させられる(*3)。こうしてそのタイトルを並べていくだけで、その偉業に目眩がするほど、グレミヨンの才能は疑いの余地がない。シュールレアリストたちからも敬意を払われ、アントナン・アルトーの前妻と結婚した(*4)グレミヨンは、20年代の産物、つまり前衛芸術と形式主義の時代の産物と言えるだろう。しかしまた同時にグレミヨンは石に刻まれたかの如く、生粋のノルマン人であり、その目は果てしない海へと向いていた(『混血児ダイナ』の大型客船、そしてもちろん『燈台守』と『曳き船』も海を舞台にした作品である)。グレミヨンは知識人であると同時に海の男だった。形式主義者であると同時に偉大なセンチメンタリストだった。そしてなによりもヒューマニストの芸術家だった。
伝道師の魂
彼の著作集『映画?それはひとつの芸術以上のもの…』は見事な道程を描いている。まず、20年代における三つの著作は、映画理論的な文章、とりわけジャン・エプスタインの理論が書かれていた時代背景の中に位置づけることができる。グレミヨン映画のポエジーを視覚化するには以下の文章をひとつ引用するだけで十分だろう。「夜とは運動だ。それは光の溶解の中で我々が異なる振る舞いをすることだ。それは断腸の思い、孤独の一時、穏やかな状態、不安、待機、安らぎの光線が我々の心の中に、意識に溶け込んでいく。それは決して単なる色ではないのだ」。より多くの文章が残されていないことを悔やむほど美しい文章である(しかし、この時期にグレミヨンすでに映画を作り始めていた!)。映画は外の世界を再現したものではなく、思想であるという理論をグレミヨンは擁護している。『散り行く花』に関する文章で、彼はボクサーの登場人物についてこう述べる。「彼の両肩は急流の中の細長い丸木舟のパドルの様に生き生きとしている。そして彼の上半身は卑劣なほどしなやかだ」。
そして1934年、「団結する映画のために」という風刺文章によって状況は一変する。それはこのよう現代的な言葉を用いて書き始められる。「世界は今にも破綻しそうである。思想、そして精神に対する理論上の裏切りがいたるところで起こっている」。この時から、グレミヨンの伝道師としての魂に火が灯るが、それにつれて彼の企画は日の目を見ることがなくなっていく。1931年から1937年の間、グレミヨンは初めて食い扶持をつなぐ仕事を余儀なくさせられる。彼は映画産業がどのようにして再考され得るか思い描き始める。そして団結することが解決法だと思い至る。戦時中、グレミヨンはなんとか『この空は君のもの』を撮ることで、(ドイツ占領軍に対する)抵抗運動に隠れた賛歌をおくり、『高原の情熱』には占領者に対する嫌悪を描くことで、その勇気を示している。戦後、すべての可能性が手元にあるにも関わらず、彼は極めて野心的な大衆叙事詩の企画に取り組む。そうした企画が存在していたことは、アラン・ウェベールの著した『決して見ることのできない映画たち』(L'Harmattan, 1995)において知ることができる。同書によると、グレミヨンは、パリ・コミューンについての映画、そして『罪なき人々の虐殺』と題された作品を企画していた。1955年に行われた対談でグレミヨン本人が悔恨とともに述べているように、『罪なき人々の虐殺』は「スペイン戦争から第二次世界大戦休戦まで、フランスが英雄のふりをしていた10年間の一大絵巻」として構想されていた。そしては1848年2月革命の百周年について企画された『自由の春』は、シナリオが完成していたにも関わらず、「本作を撮らせないための偽りの方法」によって突然、資金を断ち切られてしまった。
グレミヨンはフランス映画の中で教訓的な大作を撮ろうとしていたが、そこにはアベル・ガンス的なアカデミズムや叙情性に陥る危険性があったのではないか? もはやそれを知るすべはない。ただ確かなことは、1944年にグレミヨンが驚くべきドキュメンタリーを作り上げたことだ。『6月6日の夜明け』は、グレミヨンの繊細さ、誠実さ、そして細部にわたる感性が、歴史的出来事の高みにまで達していたことを示している。
前述の著作集からは、グレミヨンが当時もっとも野心的な企画を構想していたにもかかわらずそれを実現することができない一方で、あらゆる機関で必要とされ、特にシネマテーク・フランセーズの館長に任命されたという不条理な境遇に置かれていたことを知ることができる。つまり重要な役職に就き、中心にいながらも、完全に蚊帳の外に置かれていたのだ。グレミヨンは確かにこの当時、3本の作品を撮っている(『白い足』、『不思議なX夫人』と『ある女の愛』)。どれも美しいが、彼の望んでいたものからはほど遠かった。グレミヨンは複数のシネクラブを巡業し、映画の未来について考え、ユニフランスの代理として1ヶ月間アジアへフランス映画を紹介しにも出向いた。グレミヨンのフランス映画への献身さは素晴らしいものであった。1959年、ヌーヴェル・ヴァーグが、まさにその波で押し寄せてくるという時にグレミヨンはこの世を去る。まるで一昔前の時代の忘れ去られた代表者として(50年代の「カイエ・デュ・シネマ」ではほとんどグレミヨンについて触れることがなかった)。
レアリスムという大きな問題
グレミヨンの著作は、実に驚くべき方法で、現在進行形の映画についての考えも明らかにしている。グレミヨンの主な関心ごとはレアリスムの問題であり、アンドレ・バザンも(ほぼ彼と同時期、1960年に亡くなっている)同じ頃にその著書の中で提起している問題でもある。グレミヨンは1952年に以下のように主張している。「フランス映画とはフランス的レアリスムだ」。そしてレアリスムを以下のように定義する。「それは人間の眼が直接感知しない繊細さの発見である。これを見えるようにするには、事物と存在の間に知られざる調和や関係を打ち立てなければならない。私たちの想像力を刺激し、私たちの心を魅了するイメージを生み出す、この汲めども尽きぬ泉をいつも新鮮にしておかなければならない」。形象化(フィギュラシオン)から出発し、超形象化=変貌(トランスフィギュラシオン)へと至る。つまり現実を起点として、人の心、想像力へと達するのだ。通常のレアリスムついての定義からはかけ離れているが、グレミヨンは熱心にこう指摘する。「私にとっては、機械論的な自然主義が重要なのではなく、それとは全く逆で、最大限の秩序の中で最大限の表現がなし得る美しさこそが重要なのだ」。
現実を忠実に表現することの表裏として、レアリスムと自然主義を区別することで、いかに思想が明確なものになるのかを知り、驚きを禁じ得ない。自然主義ではうわべだけの忠実さが紋切り型的表現を使い続けることになるのに対して、レアリスムは物事の深淵なる部分に入っていくことができる。これは文学的な観点(自然主義)を一掃することにもかかっており、ジャン・ルノワールについて語りながら、シネマトグラフ的な観念、つまりレアリスムのために絵画的な観念(印象主義)を一掃したのと同じ方法である。そのレアリスムについて、アンドレ・バザンもまた彼なりの方法で入念にその理論を構築していた。それに加え「フランス的」レアリスムの思想を、戦後のコンテクスト、つまり戦争によって多くの国民の失った国の文脈に置き直さねばならない。作家主義的なフランス映画が、ルノワールやグレミヨンが理解していたものとはかけ離れた、社会的レアリスムか感情的レアリスムという選択にのみ長いこと留まっている今日、このグレミヨンの著作を読むことはよりいっそう興味深いだろう。今日では一笑に付す人もいるだろう、美しさ、真理、あるいは真実味という概念も、現実の平坦で幻覚的な表現に陥らないために必要なガードレールであったのだ。
1957年のアジアでの巡業の際のメモの中で、グレミヨンが生涯探求し続けたレアリスムの観念が、キャメラによって人間や事物を明らかにするという関心とともに、しだいに映画作家にとって本格的な研究テーマとなっていったことに気づく。「核心にまで」行かねばならない、そしてグレミヨンは「心と心で会話」しなければならないという、素晴らしい言葉を見つける。以下のような格言も忘れてはならないだろう。「主体そのものが持つ美しさではなく、客観性(レンズ)によって変貌した主体の美しさ」。もしくは「自分独自の様式というのはない。まず様式から出発することはできないのだ。何故なら、我々がそこへ達するからだ」。ふたつの考えは最終的に同じことを言っている。つまり本末転倒してはいけないということである。我々は美へ、様式へと達しはするが、そこから出発はしない。それは主意主義に凝り固まり、思い上がった多くの監督たちを手の甲で一掃する。
ある言葉が頭によぎる、「寛大さ」だ。なぜグレミヨンが「最高」であったのか? なぜなら、ルノワールが「親父(パトロン)」であり、今後もそうあり続けるとしたら、グレミヨンは、才能と善良さというふたつの意味において最高の映画作家と言えるからだ。彼は最も天賦の才に恵まれ、そして打ちのめされた。彼は映画とフランス映画の伝道師へと転身し、その献身には感嘆せずにはいられない。
文:Stéphane Delorme(ステファン・ドゥロルム、現「Cahiers du Cinéma」誌 編集長)
訳:楠大史、坂本安美
協力:新田孝行
*訳注
1. 『Le Cinéma? Plus qu’un art…, Écrits et propos, 1925-1959(映画?それはひとつの芸術以上のものである 著作、発言集 19251959)』、ジャン・グレミヨン著、ラルマタン社、2010年11月19日発刊。
2. 『L’Encinéclopédie, Cinéaste 《français》des années 1930 et leur oeuvre(映画事典、1930年代「フランス」映画作家と彼らの作品)』、ポール・ヴェキアリ著、エディション・ドゥ・ロイユ、2010年12月1日発刊。
800ページに及ぶ同事典は、映画作家ポール・ヴェッキアリが、30年代にフランスで撮られた作品(フランス人、外国人の作品に関わらず)をすべて網羅し、ヴェッキアリ独自の評価によって、あらたな視点からこの時代の映画史が語られている。そのリストの中で最も高く評価されているのが、ジャン・グレミヨン、そしてマックス・オフュルスである。
3. 『混血児ダイナ』は完成当時90分の長さがあったが、検閲により50分に短縮された。物語はニュー・カレドニアに向かう大型客船で展開する。船の一番上では有産階級のきらびやかな世界があり、その下の暗い機械室でシャルル・ヴァネルら機械工が働いている。この二つの世界の間に一組のカップル、黒人の夫と混血の妻が登場する。人種間の対立はしかし性的な対立へと移行していく。
4. 『マルドーヌ』や『燈台守』にも出演した女優ジェニカ・アタナジウを指すと思われる。アントナン・アルトーはその特異な美しさに魅了され、恋人であった彼女に宛てた手紙がのちに書簡集として出版されている。グレミヨンとは10年ほど共に暮らしていたとされる。