『祖谷物語-おくのひと-』蔦哲一朗隈元博樹
[ cinema ]
35ミリのシネスコで捉えられた「祖谷(いや)」とは、40近くの山村集落からなる祖谷山地方の通称である。現在は徳島県三好市に合併された限界集落であり、かつて屋島の戦いに敗れた平氏の残党たちが、平家復古の望みをつなぎつつ、身を潜めて暮らした場所でもあるらしい。『祖谷物語-おくのひと-』とはそうした平家伝説の諸説しかり、いわゆる「秘境の地」と呼ばれる特別なロケーションのもとで撮影されたフィルムだ。
残念ながら祖谷には行ったことがない。だけど行ったことのない祖谷に流れる水と、祖谷の水を運ぶ生活者そのものに、なぜか奇妙な親密さを覚えた。「おくのひと」とは、生まれながらにして祖谷の山深くに衣食住を営む人々を指している。無心で天秤棒を肩に担ぎ、祖谷の水を運ぶお爺(田中泯)の姿は、まさに「おくのひと」の象徴だ。いっぽうお爺と暮らす春菜(武田梨奈)は、元はと言えば「そとのひと」であり、生後間もなくして車の事故からお爺に助けられ、高校生になるまで育てられてきた。だから水の運搬は、お爺の手伝いをすることで、やがて血のつながっていない春菜へと継承されていくことになる。彼らの水の運搬をゆったりとキャメラが捉え続けるのは、作物に水に与えることだけが目的ではなく、そうした「そとのひと」の身体へ「おくのひと」の血を注ぐ行為でもあるからだ。
水の運搬は彼女だけにとどまることなく、東京から逃れてきた工藤(大西信満)の身体にも引き継がれていく。ふたりのその行為に身を委ねるようにして、彼も「おくのひと」と化し、「そとのひと」から「おくのひと」へと変貌を遂げる。だけどこのフィルムは、単に「おくのひと」のみに焦点を当てた物語ではない。祖谷には公共事業のトンネル建設を進める「なかのひと」がいれば、抗議デモに端を発する「そとのひと」もいる。-水が汚れれば土が汚れる。土が汚れれば動物が汚れる。動物が汚れれば人間が汚れる-自然の摂理が崩れ始めたとき、祖谷のトンネルは完成し、抗議デモを行う外国人たちは祖谷を離れていく。大根畑が荒らされるのは、野生の鹿たちによる抵抗だ。祖谷の自然と敵対する両者、そしてお爺をはじめとした生粋の「おくのひと」といった複数の「ひと」によって、祖谷は大きく突き動かされていく。そんな悪循環が露呈されていくがゆえに、「おくのひと」であろうとするお爺や春菜、そして工藤による水のリレーに対し、奇妙な親密さを覚えたのかもしれない。
そして奇妙な親密さを覚えた理由がもうひとつ。それはデジタル化の波によって忘れ去られつつある、フィルム独特の原初体験を追求し続けるひとこそが「おくのひと」なのではないだろうか。水を運ぶこのフィルムの物語をあえて感覚と呼ぶならば、おそらく「おくのひと」の感覚だけではとどまらない。それはきっと、そのスクリーンを前にした僕たち「そとのひと」にとっての感覚でもあるからだ。『祖谷物語-おくのひと-』の169分は、あの35ミリフィルムにしか体験できない感覚をまざまざと呼び起こしてくれる。「おくのひと」が「フィルムのひと」ならば、祖谷を知らない「そとのひと」でさえも、奇妙な親密さを覚える由縁がここにある。