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February 22, 2014

『ラッシュ/プライドと友情』ロン・ハワード
結城秀勇

[ cinema , cinema ]

このストレートに痛快な作品をストレートに痛快だと言おうと思って書き始めたのだがどうもうまくいかない。男がふたりいる、マシンが二台ある、そのどちらかが世界一。それでおもしろくないわけないだろ、ごちゃごちゃ言うな、ってな具合にいけばよかったのだが。そもそも『ラッシュ/プライドと友情』の痛快さはそれほどストレートなものではないのかもしれない。
というのも私の思い違いでなければ『ラッシュ』は、ドイツGP当日のニキ・ラウダ(ダニエル・ブリュール)のナレーションで始まったかと思った矢先に、ジェームズ・ハント(クリス・ヘムズワース)のナレーションへと変わりそのまま過去の回想へと移っていっていたからである。1976年のF1世界選手権の、まさに「事実は小説より奇なり」を地でいくようなドラマチックな展開をフィクション化する際にぱっと思いつくふたつの方法は、瀕死の事故から奇跡の復活を果たした男をライバルの視点から語るか、あるいは将来通産三度のワールドチャンピオンに輝く男に唯一嫉妬を覚えさせた男をライバルの視点から語るか、である。『ラッシュ』は後者に比較的近いが、冒頭で突然介入してくるハントの声によって、やはり単純にそうだとは言い切れない感じの作りになっている。もし語り手がラウダだったのなら、彼に唯一嫉妬を覚えさせたハントのなにかが、ふたりの間で賭けられていたものということになったろう。あるいは語り手がハントだったのなら、彼が看護婦を口説くシーンに重ねられるナレーションのように、死と隣り合わせなことで得られる生の実感、そしてそこにできるだけ(栄光とともに)とどまり続けることこそが、ふたりの間でやりとりされるものとなったことだろう。だがこの映画ではそのどちらでもあり、そのどちらでもない。
そう考えていたら『フロスト×ニクソン』についてかつてこんなことを書いていたのを思い出した。「我々は共に敗者なのだからどちらかが勝たねばならない」、ニクソンは世界の誰もおもしろ半分にしか興味を持っていないふたりの戦いをそう評する。『ラッシュ』ではF1グランプリのチャンピオンという、誰の目にも明らかな栄光が賭けられているがゆえに見えづらくなっているが、ラウダとハントの間でやりとりされるものもまた、フロストとニクソンの偽タイトルマッチに賭けられていたものと同様、それを奪い合うふたりにしかわからないものなのではないか。厳密に言えば、それはラウダとハントにも明確に見えているわけではなく、ふたりの切り返しによってはじめて浮かび上がってくるものなのではないか。
事故の後遺症からレースが開始されてもピントのずれたぼんやりした視界しか持てないラウダ。その彼が前方を走る二台のマシンが接触するのをきっかけにクリアな視界を獲得する。それによって彼は見事復活を遂げ、彼に致命的な一撃加える要因となった「人気のなさ」を払拭したことが、ゴールとともにピットに駆け寄る無数の人々の映像ととも示される。そのラウダを打ち負かすハントが、もし最終戦日本GPのあの荒天の中でラウダに負けない明瞭な視界を確保し得ていたら話は簡単だった(クリアな視界=勝利=人気という図式ができた)のだが、雨粒に視界を奪われていた彼には間違った結果を表示する掲示板と同じように、自分の順位さえ見えていなかった。にもかかわらず勝利は彼の頭上から降ってくる。
リスクを回避するのか、リスクを積極的にチャンスに変えていくのか。ひとりの女のもとに帰るためにレースを放棄するのか、世界中を沸かせるために死の危険を負うのか。頭脳か、本能か。そんな単純な二項対立のどちらが正しいかを証明するためにラウダとハントは戦うのではない。そうではなく、ふたつに分けられてしまった時点ですでに両方を手にすることができないなにかのために、決して手にできない勝利というものが存在することを証明するためだけにふたりは戦う。『フロスト×ニクソン』をもじって言うならばこんなふうになるだろう。「我々は共に勝者だが、どちらも本当に勝つことはない」。『ラッシュ』は「にがい勝利」を描いた数々の映画の系譜の末端に置かれるべき作品である。



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