『ハロー、スーパーノヴァ』 今野裕一郎汐田海平
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北千住を拠点とし、演劇・映画・写真等ジャンルを横断しながら、独創的な作品を生み出しているユニット・バストリオ主宰の今野裕一郎。彼が様々な手法を通して表現し続けるものは「日常」であると同時に、「寓話」でもある。
バストリオは今冬、東京を中心に、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアでもツアーを行うエレクトロ・アコースティックユニットminamoとのコラボレーションでも注目された『100万回』の公演を、約70年の歴史を持つプロテスタント教会である下北沢「富士見丘教会」にて再演した。
いのち、宇宙、季節、景色、水、猫、ポップコーン。富士見丘教会というハレの場所に、様々なことばが飛び交い、それと同時に様々な方向を持つ身体、動き、意味、異なった現実味が次々に立ち上がる。
乱雑に散らかした(ように見える)たくさんの要素。しかし、minamoの心地よくも気高い音響が点と点を、「日常」から「寓話」までを、一気に貫く。全体をかろうじてひとつの作品として繋ぎとめるのは、音や場所そのものの持つ荘厳さである。
ひとつの空間に、こんなにも多くのものが置けるものなのかということに、まずは素朴に驚く。そしてそれらの要素が、手に手を取り合って形作るマスゲームの、少しでもバランスを失えば一気に音を立てて崩れ落ちるのではないかという繊細さに、ハラハラとさせられる。
こちら側の小さな心配に対して、そんなことは余計なお世話だと言わんばかりに時折顔を覗かせる、場所が持つ荘厳さを切り裂くポップさ。バランスは、失わない。むしろ我々に、そういえばここは日常と繋がっていたんだという感覚を、つき返す。
ひとつの空間に異なったリアリティを絶妙な感覚で配置できることは、今野裕一郎という作家の特性であるし、それは舞台から映画へと表現媒体を移したところで色褪せることはない。
映画『ハロー、スーパーノヴァ』に登場する人物の名は女、鳥夫、旅人、唄子、眼帯の警官、リサイクルショップの男、アイスの男、経済を語る女、鳥屋の女、車の持ち主、移民、夫と、遊び心に満ちていて、寓話的である。
活動拠点でもある北千住、度々顔を見せる荒川が印象的なこの土地の人たちは、『生きている』(2010)や『信じたり、祈ったり』(2010)から連なる今野裕一郎サーガの住人だ。
しかし2011年に撮影された今作における彼らは、かつて『生きている』で見せてくれた、笑ってしまうくらいの喜びに溢れたワンショットが嘘だったみたいに、バラバラのようである。我々と完全に地続きの「あの」嫌な記憶を背負っているからに他ならないだろう。
そこに、外部の人間がやってくる。
「遠くからやってきました」
「長く住める場所を探しています」
劇中、何度も咳き込み、路上に唾を吐きつける妙な旅人(上村梓)が、街の外側からの視点を導入し、この物語のかたらいべとなる。
今野裕一郎は北千住を物語るために、度々外部の声を呼び込む。そして住人達もよそ者も、探し物をしている。いつだってこの町では皆、何かを探しているのだ。『信じたり、祈ったり』におけるUFOの欠片のように、『生きている』における「ジョン」のように、具体的なものを探す人々が心の底で本当に求めているものは、もっともっと、巨大で、抽象的なものなのだろう。
演劇においては、教会というハレの場所に同席した観客に対して、ケの感覚を軽快に提示してみせた一方、『ハロー、スーパーノヴァ』では北千住の普段の中に、非日常を置くとこから始めている。どちらにも共通するのは、たくさんの要素を配置していくところ、そしてとても大きくて感覚的なものを捉えようとしているところだ。
橋の上で、鳥を売っている店内で、人と人、ものが出会い、繋がるプロットポイントでのカットバックによるショットとショットの優しくも力強い結びつきが全体を貫き、これらの切り返しによって物語のはじまりと終焉を予感させる。
『100万回』において教会とminamoの音楽がその役割を果たしていたように、『ハロー、スーパーノヴァ』においては、まさに映画的な作法によって世界を結い込んでいる。
重要な局面を除いては、引き・寄り、そして風景の広がりで見せていく手際も、人物の足が地球に衝突し、拮抗しうるさまを丁寧に切り取ることに真摯な姿勢だ。街に飛び出した、ユニークな登場人物たちは、とにかく走る、走る。
まるでそこに横たわる大地の存在を確かめるかのように走るのだ。ついつい、少しばかり大げさなことばで形容したくなるような、しっかりとした足取りをカメラは捉えている。そして、外に駆け出し、実感に満ちた彼らだからこそ、自らの内に生まれた新しい命について、宇宙について、語ることができるのだろう。街に駆け出した人たちにしかかけられない魔法の存在を教えてくれる。
この作品について語るために、仰々しくなってしまうことそれ自体が今野裕一郎の仕掛けたファンタジーのターミナルなのだろうかとさえ思えるのである。
こんなにあっさりとケ・ハレを飛び越えて、その先の大切なものを見せてくれるなんて、日常を寓話に変えるマジシャンの仕業みたいだ。