『パリ、ただよう花』ロウ・イエ三浦 翔
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この映画の後半に、印象的な場面がある。中国の知識人による、インタビューの場面だ。「中国では共同で見る幻想として映画があります。そうではなく、私たちが求める本当の映画とは悪夢のことなのです」この知識人とは、いわゆるロウ・イエの生き写しであるわけだが、中国政府に5年間の制作を禁じられた彼は、いまどのようにして、「映画」を撮り続けようとしているのか、そして彼の答えにある悪夢とはいったい何のことなのだろうかと脳裏をよぎった。
『パリ・ただよう花』は常に力に逆らえないホア(コリーヌ・ヤン)という女性の物語だ。彼女に近寄る男たちは、みな自分のことしか考えていない。しかしそうした事実をものともせず、彼女は男たちを受け入れ、捨てられることを繰り返す。パリで出会ったマチュー(タハール・ラヒム)にはレイプされ、遊び道具にされる。しかしそれでも、彼女は何かを求めている。マチューには家庭があり、相手は移民で子供まで抱えているにもかかわらず。さらに、マチューが婚約を破棄すれば結婚相手は子供とともに強制送還されるにもかかわらずだ。そして、中国に帰った彼女は大学のポストを約束され、大学教授との結婚を断ることさえも出来ない。同僚たちは「おめでとう。これで、君もこの中国の統一へと貢献できる」と口にする。権力に屈服せざるを得ないホアは、映画制作を禁じられたロウ・イエと同じく、ともに幻想から遠く離れた、悪夢をそこに見ることとなるのだ。
現実を追い求めるがゆえに、街中にカメラを持って繰り出せば、映像はもっと荒々しいものとなる。ロウ・イエは、ホアとその悪夢を捉えるべく、常に役者をそのフレームの中心に据え、カメラの前の彼らを追いかける。ふたりの切り返しも単にカットを割るのではなく、カメラはホアやマチューを取り囲むようにして一つのショットに収めることを選択する。ホアはパリを歩き、カメラも歩く。彼女の見る市場や工事現場にいる労働者のショットは、ふいに挿入されるに留まるだけで、悪夢の渦中にいるホアは、パリを彷徨い、あますことなくそのカメラによって捉えられていくのだ。結局アバズレの女として終わる彼女は何も救われない。しかしそれでもカメラだけはホアのもとに寄り添い続ける。手探りのカメラによって捉えられたホアを見つめることは、敗北という現実の奥に触れ得る、悪夢のように辛いものなのかもしれない。しかしこのことが、現実を見えなくさせる中国の映画の在り方への抵抗であり、ロウ・イエにとっての「映画=悪夢」なのではないだろうか。そして、彼がかつてのヌーヴェルヴァーグを生んだパリを選んだことは、ホアや他の男たちをハンディショットで捉え続けたことと、あながち無関係なことではないだろう。