『アメリカン・スリープオーバー』デヴィッド・ロバート・ミッチェル高木佑介
[ cinema ]
何か突飛なことをするには遅すぎる、でもこのまま終わってしまうのはつまらない。若さを無邪気に謳歌したいわけでも、少し背伸びして大人の気分を味わいたいわけでもない。夏の終わりの空気とともに揺らぐティーンエイジャーたちの、そんな感情。すぐに終わりが訪れることなど言われなくともわかっている、楽しくもありどこかもどかしくもあるその時間。実際にあるのかどうかもわからぬそのような一時期を迎えつつある人々のあり方を、「大人」を自称する連中が溜息混じりに郷愁しながら「青春」と呼ぶならば、勝手にそう呼べばいいだろう。とはいえ、夏休み最後の週末を過ごす彼ら・彼女らを突き動かしているものは上から目線で「若さ」や「青春」などと括られてしまうものとはどこか違う。もっとあやふやな何か、それを自分たち自身の言葉で言い表すことはできない、でも確かに彼ら・彼女らが手応えを感じている何かだ。
予感……そう、それはおそらく予感である。「何かが起こる(はずだ)」という確かさと不確かさがぴたりと一致した予感を抱きつつ、彼ら・彼女らはその場所・その瞬間を生きているように見える。私の視線と誰かの視線が交わった瞬間に、どこかで偶然誰かと出会った瞬間に、あるいは街の至るところで「スリープオーバー(お泊り会)」やパーティが開かれている一夜に漂う気配を肌に感じた瞬間に、その不確かな予感が彼ら・彼女らに確かに宿るのが見る者たちにもわかってしまう。まだ何事かが到来すると決まったわけではない、でも何かが起こる(はずだ)、というこの世界に秘められた可能性への信頼のような予感。それを強く想起させる磁場がこの「アメリカン・スリープオーバーの神話」(原題“The Myth of the American Sleepover ”)と銘打たれた作品には渦巻いているのだ。誰かと誰かがキスをした、誰かが誰かを探しに行く、一組のカップルが生まれ一組のカップルが終わる、等々。どう考えてもストーリー上では大したことは起こっていない。大袈裟なハプニングやドタバタがあってもいいところを、些細な出来事だけの積み重ねだけでこれだけの説得力を持って人物たちを輝かせることができている映画は滅多にないだろう。ほぼ無名の登場人物たちのなかに何らかの感情が生起する瞬間、人物たちの視線の交錯によって何らかの予感が到来する瞬間――こうしたものを捉えてしまう映画とは本当に厄介なもので、恋とかトキメキとでも形容しておくほかないのだが、画面に宿る肌理とでも言うのだろうか、この映画における人物と人物、人物と事物の配置、視線と視線の絡ませ方(およびそのタイミング)などへの心配りには目を見張るものがある。たとえば、とあるティーンエイジャーが自分の彼氏の元カノの部屋で、秘密の日記を盗み見てしまうシーン。日記を読む彼女の向こうにはその部屋の扉が見えており、いまにも日記の持ち主が入ってきてしまうのではとこちらは気が気ではないのだが、しかし有り難いことに事なきを得る。とはいえ、そのあと地下室で決定的瞬間が……というような、見ている者たちのエモーションの起伏に自然とリンクしてくる撮り方や流れがこの映画には溢れているのだ。
おそらく、かつてジョン・ヒューズが80年代に撮っていたような偉大なる「普通」の青春映画への郷愁や敬愛の念だけではこうした映画は撮れない。クレイグ・ブリュワーでさえ『フットルース』(84)のリメイクには苦戦しているように見えたのだから、『理由なき反抗』(55)などから紡がれてきたアメリカ映画の総意として認められていたジャンルとしての青春映画は、ジョン・ヒューズがメガホンを取ることをやめた時点で象徴的に終わったのは間違いのないことだろう。それだけに、ベトナム戦争時に撮られた『アメリカン・グラフィティ』(73)然り、こういった物語はどこか現実そのものの行き詰まり感――から生起する絶望や突き放される経験――から出発しない限り、生まれえないものでもあるとすれば(実際、監督の出身地でありこの映画の舞台とされているデトロイトは、アメリカ最大の「財政破綻=リミットを迎えた」都市でもある)、「理由なき反抗」をするにはいささか理由が多すぎる今日において、不可思議な「神話」的時間を携えたこの『アメリカン・スリープオーバー』という作品に何か光明を見出すことは大袈裟に過ぎるだろうか。少なくとも、見る者に少しでもそのように感じさせることができるなら、映画はもうそれだけで十分なのかもしれない。
東京藝術大学映像研究科映画専攻オープンシアター2013/14 第3回2014年3月15日(土)、22日(土)、23日(日)にて日本初上映