『それでも夜は明ける』スティーヴ・マックィーン渡辺進也
[ cinema ]
最初に、まるでこれから起こることをダイジェストで示すように一連の様子が描かれる。サトウキビの収穫の仕方を教えられ、金属の皿に載せられた食事を素手で掴み、木の実からインクを作ろうとして失敗し、夜中横に寝る女奴隷に誘われる。そこにあるのは、陥ってしまったことに対してどうしようもないあきらめの表情なのか、それともうまくいかないことへのいらだちなのか。
『それでも夜は明ける』の原題は、’12YEARS A SLAVE’。直訳すれば「12年間奴隷として」とでもなるのだろうか。ニューヨークかどこかで自由黒人として生活していた男が、白人に騙されて南部に売り飛ばされ、奴隷として生活するというあらすじ。
見せるつもりは満々なんだけどあからさまに説明するのは野暮だから画面の隅っこに置いたり前に障害物とか置いてとかして見せるけど、というこの監督特有の作り方があるのだけれど、その中で気になるのはやはりわざと見せないということであって、例えば男が鞭で打たれるときの男の顔が暗闇にまぎれて見えない(別の鞭の場面ではちゃんと見せる)ということがあったり、木に吊るされる男がまるで風景の一部のように当たり前のものとして描かれるところがあったりして、嫌らしいなと思いながらちょっと反応してしまう自分が憎らしい。
だからというか、気になるのは12YEARSのほうなのだ。この12YRARSというのは、タイトルとしてはじめのほうに示されるから12年だと知れるのであって、でなければ12年と考えるだけのものはここにはない。ダイジェストのように描かれ、2度目に見るときもやはりダイジェストの形でしかなかった、冒頭部分は一体それが何年目のことなのかわからないだろう。さらに言うと、12年間キウェテル・イジョフォーの容姿はほぼ変化することはない。彼が突然白髪まじりになり老け込むのは、昔の知り合いが農場に救い出してきてくれてからである。
ここで描かれる12年間は経過していくものではなく、ただそこにあるものが持つ魂でしかない。この男が連れ去られた1841年から、もしかするとずっとあり続けるのではないかという邸宅や川辺にあるヤナギの木のように、風に身を任せながら変わりなくあり続けるその姿のように男はある。
『アメリカ音楽史』(大和田俊之著)によれば、この1841年から1852頃のアメリカというのは、「国内の産業が発展し、交通網が整備されることで」急速に都市化が進んだ時期で、アメリカ人のライフスタイルに変化——「自然のサイクルにもとづく田園の日常を離れ、時計が刻む時間に制御され、家族のもとを離れて見知らぬ人々に混じって生活を始めた」——が訪れる時期だという。そして、その中でアメリカ建国以来はじめて普及したポピュラー音楽であるミンストレル・ショウが誕生するということで、ひとつのアメリカ音楽史が始まっていくのだがそれはまた別の話である。そして、男が家に帰ることができたその20数年後になって南北戦争が始まることも歴史は伝えている。
もちろんそれらは映画に決して描かれることなどないのだが、それでも、やはりこれは歴史についての映画である。1本のヤナギの木はそれらに関わっていなくとも、その時代にあったのは確かなことなのだから。そして、南部のヤナギはニューヨークの風など考えない。