『悪魔の起源 -ジン-』トビー・フーパー結城秀勇
[ cinema ]
霧が怖いのは、たんによく見えないからではなくて、見通せない状況と見通せる状況の間にあるはずの境目、閾値がどこにあるのかわからないからなのではないか。くっきりと見えているものがだんだん遠ざかるにつれて、細部がぼやけ、シルエットだけがかろうじて判別できる状態になり、やがてなにも見えなくなる。澄んだ空気のもとであれば長大な距離を経て表れるそうしたプロセスが、極濃の霧の中では極限まで圧縮され、たった一歩の距離で見えたり見えなくなったりする。言ってみれば、視覚情報の獲得と処理の速度を、身体の運動能力が上回ってしまうことの恐怖。真っ暗闇で底なしの落し穴に落ちる恐怖と、霧で崖から転落する恐怖は、たぶん別種のものだ。
UAE資本で作られたトビー・フーパーの新作『悪魔の起源 -ジン-』 は霧の映画だ。砂漠なのになぜ霧? そんな疑問への答えは一切存在しない(一応、海辺だと言われるが海なんてこれっぽっちも見えない)。闇ではなく霧。得体の知れないものが激突してくるのではなく、激突した瞬間に鳥だったとわかってしまうこと。この作品に登場するジン=妖魔は、見えないもの、あるいは見るもおぞましいなにかなのではなく、見ているうちにデジタルノイズのようなブレをもたらすなにかである。見間違い、ちょっとしたエラー。とるにたらない些細なものに過ぎないのだとしても、それが決して「気のせい」ではないことに『悪魔の起源』の恐怖はある。そう考えてみると、フィルムのような深い黒が全然出ておらず、なんだかコントラストの浅い、薄っ白い膜が一枚かかったようなデジタル素材すら、この映画に即したものに思えてくる(のか?)。
この映画の最後、登場人物が高層マンションの屋上から落下するのだが、そのときまるでその人物が霧を突き抜けたとでもいうかのような描写がある(たとえるなら、ジェット機が音速を超えた瞬間衝撃波を発生させるような、そんなエフェクトがかけられている)。それがあることがこの作品全体にどんな影響を与えているのか、そもそも影響があるのかどうか知らないが、なんだかとんでもないものを目にしてしまった気がする。霧の層の重なりの中には閾がある、そこを人体は制御不可能な速度で通過する。