『クローズEXPLODE』豊田利晃渡辺進也
[ cinema , sports ]
くすんだねずみ色の中に灰のような白い塊がふわふわと舞っている。小さい男の子が母親に手を連れられて孤児院へと連れて入るときに降っているこの雪は冷たいとか、重いとか、そんなことは考える由もなく、ただただ乾いていて、軽い綿のように見える。そして、例えばこの雪は、この映画で後ほど出てくる、ふたりの男が殴り合いをする産業廃棄場に舞う綿ぼこりか何かとまるで同じもののように見える。この2つの場面の雪がほとんど同じようなものとして見えること、乾ききった軽いものとしてあることが真骨頂だろう。そこにあるセンチメンタルなものを拒絶するというか、そんなもの最初からないというような振る舞いのもとにある。
さびれた商店街だろうか。シャッターの下りた商店が続く。その前を歩く主人公の前には、黒い学生服を着た男たちがワラワラといて、主人公が歩くその横顔を移動撮影でとらえたその背後には殴り合いをしているいくつもの黒い集団が見切れている。シャッター街であるはずのこの通りはにぎわいを見せ、歩けば歩くだけ黒いやつらがからんでくる。1本の通りを舞台に多くの人間が動き回って主人公に関係してくるなんてまるでミュージカル映画みたいじゃないか。
この映画に出てくる、喧嘩に明け暮れる男たちは(大変に失礼ながら)僕にとってはほとんど初見で誰だかわからない(後にどうもEXILE関係の人が出ているらしいと聞いた)。学校が舞台だから、そこに通う学生は百人規模でいるわけで、主要な数人を除けば顔を覚えられるわけではない。おまえは誰なんだってやつが画面の真ん中で、映画のストーリーそのままに相手を食い潰そうといきりだっている。ひどくえらそうに、自分がそこにいるのが至極当然であるという風でしかめつらなどしている。それがすごくいい。かつてnobody32号のインタビューで豊田利晃監督は次のように答えている。
「キャスティングしている段階で、本人と役の似てる部分を予め狙っているんです。その部分を引きずり出すことでマジックが生まれる。(中略)「オレなんだから、これでいい」と思うようにならないと。それまで一体化してると役者も楽だし、スタッフにとっても楽ですからね」
主演の東出昌大と勝地涼(狂言回し的な彼がいいというのがこの映画がいい証し)がわかるぐらいであとはわからないと思っていたら、もうひとり知っている人がいて、それは何年振りかに見る柳楽優弥で、『誰も知らない』のときの面影などない無骨な男になっていた。ただ必死にからまわりする姿がいまの柳楽くんにはすごくふさわしい気がして胸が熱くなる。
画面をキレイにする監督がいる一方で(例えばその典型はウェス・アンダーソン。彼は人物や建物が斜めに映ることを徹底的に排除する)、その反対に、秩序がないような画面づくりをすることができる監督がいて、実は後者のほうが極めて稀なのだと思う。スローモーション、ライブハウスの音楽、移動撮影、汚れた校舎、流れ出る血。それは、ただ汚いのではなくて、グルーヴが優先されているというような、身体に訴えかけてくるものである。
面白いとか、良かったとかいう感想よりも見ててただ気持ちよかった。