『ゴダール・ソシアリスム』ジャン=リュック・ゴダール@LAST BAUS田中竜輔
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たとえばジェームズ・キャメロンは『タイタニック』で、豪華客船を直立させる様子を圧倒的なスペクタクルとして私たちの目の前に映し出した。一方でジャン=リュック・ゴダールは、船ではなく「海」そのものをひとつの壁としてスクリーンに屹立させることを選ぶ。もちろん『ゴダール・ソシアリスム』の海は、その上に浮かぶ豪華客船に乗り込んでいた人々(=イメージ)を落とし込みなどしない。ゴダールがこのフィルムにおいて真に傾けようとするのは、その豪華客船と決して無関係ではいられない(無関係であることを許されない)あらゆる人類(=観客)のほうである。
『ゴダール・ソシアリスム』において、「船」は確かに「海の上」に浮かんでいる。しかし同時に、このフィルムでは「海」こそが「船の上」に浮かんでいるのかもしれない。艦板に塗り込まれたけばけばしい色彩は、その周囲に広がるコールタールのごとき真っ黒な表面以上に、私たちに海を知覚させる。「石油(=海)」の上に浮かぶ「海(=船)」。この二重の海の間に、ゴダールは私たちを招き入れる。20世紀以後に引き起こされた無数の悲劇の端緒である黒い液体と、その上で浮かばされ踊らされる無様な人類の間へ。
その歴史=ダンスを、人工・自然の区別を廃棄した無数のノイズが伴奏する様子は、やはり痛快であるとともに痛切だ。『ゴダール・ソシアリスム』のなかで引用された『ウィークエンド』ばかりでなく、たとえば『軽蔑』や『右側に気をつけろ』でもそうであったように、ときにゴダール映画において乗り物とは停滞を余儀なくされ、絶命すら避けられぬ戦場のヴァリエーションだった。しかし『ゴダール・ソシアリスム』の船の上に吹きすさぶ風や波のうねりとは、決して映画のなかに映り込む人々へ降り掛かるものではなく、映画館の座席という安全地帯に座り込んだ私たちにこそ降りかかる銃声であり爆撃である。
ゴダールによる『こことよそ』以来の「と(and/et)」をめぐる思考は継続している。ガソリンスタンドを営むマルタン家は豪華客船の比喩などではない。彼らの家もまた「石油(=海)」の上に浮かぶ「海(=船)」にほかならない。退避命令は出されど、海の上にも陸の上にも、逃げる場所などない。すべては終わりなき悲劇を生き続けるしかなかったし、これから先もない。そんな当たり前の絶望を見つめる覚悟を突きつける『ゴダール・ソシアリスム』の爆音ほどに、勇気を与えられるものはない。
THE LAST BAUS さよならバウスシアター、最後の宴 第7回爆音映画祭 開催中
『ゴダール・ソシアリスム』は4/28(月)20:20より上映あり