『闇をはらう呪文』ベン・リヴァース、ベン・ラッセル結城秀勇
[ cinema ]
未明の湖上で、カメラはゆっくりと360°パンする。 レンズが南東側に向かうにつれてほのかな陽の光とともに画面は白んでゆき、また次第に黒みを帯びていき、やがて再び北西方向を指したときにはスクリーンの大半が闇に沈む。その闇のもっとも深い部分、フィルムがほとんどなににも感光せずに残ったはずのその場所で、灰白色の蠕虫に似たデジタルノイズがにぎやかに蠢きだす。光量の少なさが一定の閾値を越えて、情報の無としての闇になったはずのその場所が、そのまま仄白いデジタルデータの氾濫のスペースになる。タイトルである「闇をはらう呪文」はなんらの比喩でもなく、確固たる技法=アーツとして観客の目の前に現れる。
この作品の全編を通して姿を見せるこの技法はおそらく、16mmフィルムで撮影した映像をデジタル化する際に、暗部のコントラストを極端に操作することで、色彩の階調が表現しきれなくなる、いわゆる「色が壊れる」ような状態を意図的に引き出すということなのだろうと思う。と同時にたぶん、フレームレートも変えて、被写体にぎくしゃくした動きを与えてもいる。アナログとデジタルとをキメラのごとく不自然に接合することによって、闇を白く蠢く別種の存在へと反転させるという手段は、映像だけではなく音の作り方や主題に反映されてもいるだろう。たとえば、森の中で静かに爆ぜる焚き火の音が、「パチッパチッ」ではなくむしろ「ポタッポタッ」という滴り落ちる水の音のように聞こえてしまうこと。あるいは終盤のライヴシーンにおいて、本来すべてをかき消すほどの轟音であるはずの楽器やヴォーカルの音が、それを聞いている観客たちがたてる囁きやノイズとほとんど変わらないような大きさで鳴っていること(よくわからないのに適当なことを言うと、本来アンチキリスト的な思想や言動と結びついたブラックメタルを、そこから切り離して「ホワイトメタル」化すること!?)。それらはみな、被写体のひとりが口に出す「対数螺旋」のようなものなのかもしれない。すでに終わったレコードの中心でいつまでも飛び続ける針。子供が遊ぶカタツムリの殻。向きを変えて見ることが、そのまま同時に拡大や縮小の操作に変わってしまうこと(Wikipediaの「性質」のところを見てみてください)。
前にどこかでも書いたことだが、いま私が危惧しているのは映画のフィルムが消滅してしまうこと自体よりも、フィルムの質感や解像度にデジタルのそれらを近づけ、さらには追い越すことにしかデジタル撮影の特色を見出せないままの現状でフィルムが滅びてしまうことの方にある。そうした状況の中で、決してフィルムだけでは不可能な効果・手法を見せてくれるこの作品にはおおいに勇気づけられたしワクワクした。
ということを踏まえた上で、以下は余談なのだが、『闇をはらう呪文』を見てからずっと、この作品の中で目にするような確固たる技法としての「闇をはらう呪文」の他にも、もっと曖昧な思想やアティチュードとしての「闇をはらう呪文」もまたあるのではないかとぼんやり考えている。いやもっと言えば、闇とともにあるための呪文、闇と向き合うための呪文とでも呼ぶべきものがあるのではないかと。
そのときに念頭にあるのは、ベン・リヴァースの『湖畔の2年間』(原題:Two years at sea)なのだ。この作品には原題にある「海」などいっさいでてこない。監督がインタビューで答えているように(ベン・リヴァース インタビュー)「海での2年間」とは、被写体の人生のある時点に確かに存在したものでありながら、同時に決して映画の中では描かれることのないものである。私がここまで『湖畔の2年間』という映画に心を捉えられているのはつまるところ、決して見聞きすることのない「海での2年間」と、目の前で生起する森と湖と男の生活との間の、ほとんど無限とも言っていいような距離を測定することを、この映画を通じて学ぼうとするからなのかもしれない。
それは闇を光に変える技法ではなく、昼の光の下で起こった出来事を、夜の闇の中で語ろうとすることなのではないだろうか。立ち会うことができず、映像でも音でも記録することができなかった決定的な出来事を、夜の闇の中で語ろうと試みること。
地震で建物が崩壊する映像も津波で人が押し流される映像もなしに人々が向き合い語る、酒井耕・濱口竜介の「東北記録映画三部作」(昔話とは、夜語るものなのだ!)。あるいは、昼の光を避けて歴史の遺物とともに生きる吸血鬼たちを描いた、ジム・ジャームッシュの『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』。ほとんど存在しないに等しい正気と狂気の境目を飛び越えたとして病院の中に拘束される人々の中にカメラが留まり続ける、ワン・ビンの『収容病棟』。あるいはリヴァースの作品群の中で頻出する、はるか遠い過去から送り出された閃光のように現在に突き刺さるスチール写真。そうしたいくつかの映画とともに、夜の闇と向き合うための「夜の映画たち」についていつか考えてみたいと思っている。