« previous | メイン | next »

May 3, 2014

『アメイジングスパイダーマン2』マーク・ウェブ
結城秀勇

[ cinema ]

スパイダーマンが他のマーヴェルヒーローやDCヒーローよりもスペクタクル的な理由として、彼が重力や慣性といった物理法則に拘束されているから、そしてそれを利用して運動のダイナミズムを生み出すからだというのは言を待たないだろう。その運動の快感はおそらく、球技において走り回るプレイヤーを置き去りにしつつ一瞬でゲーム全体の状況を一変させるボールの動きを見つめることに似ているのではないか。スタンドの向こうに消えていく白球、ピッチを切り裂くロングフィード。その根本的な性質を共有した上で、サム・ライミ版とマーク・ウェブ版を隔てる違いは、スパイダーマンがボールそのものであるか、あるいはボールを繰り出すプレイヤーなのかということだと思う。いや、本当はそんなことはないのかもしれないが、ここで書いたような深い感動は単にスパイダーマンがプレイヤーであるだけでは生まれえなかったはずで、ボール=スパイダーマンの運動を視覚的に共有することと、彼から放たれるクモの糸の軌道がそのゲームを奇跡的なものへと変えていく瞬間に立ち会うこととは、大いに関係があったはずである。
そういった意味でアンドリュー・ガーフィールド=スパイダーマンのプレイフィールドがなんか狭い気がするということは、前作についても少し書いたことだが、やはり彼の運動は、広大なピッチをダイナミックに活用するフットボール的であるというよりも、バスケットボールのポイントガード的なもののように思う。実際、ノールックのビハインドバックパスのようなフォームで糸を出し、プルトニウムをキャッチするというシーンもあった。加えてより重要なのは、スパイダーマンの能力を強調する描写として、あるシチュエーションで時が止まり細部を様々な角度から検証して、それから最善の選択をするという場面が何度かあることだ。狭く密集したコートを俯瞰して、0コンマ何秒の世界で"糸を通すような"最善の判断を下す。やはり彼の能力は優秀なプレイヤーとしてのそれだ。
スパイダーマンの主体的なプレイヤー化は、彼の糸の性質をも変える。もちろん前シリーズにおいても糸はコミュニケーションの仄かな比喩ではあったのだが、『アメイジングスパイダーマン2』では露骨過ぎてツッコむ気になれないほどにコミュニケーションツール化されている。文字通りの意味で、糸の持ち主の気持ち(I love you)を伝え、持ち主の「どうしてもつかみたい」という気持ちを反映して先端部を手のかたちに(!)変形させたりする。
もはや「秘密がない」ばかりか、感情さえも露骨に可視化されてしまう、過剰に透明化された『アメイジング2』の世界が、その結果どうなってしまうかというと……、「複雑」になってしまうのだ。ハリー・オズボーン(デイン・デハーン)やグウェン(エマ・ストーン)がピーター・パーカーを評して言うように。前作の中心をなしていた複数の父親たちとの契約関係はどうなった?これまでの問題もなにも解決してないのに、幼なじみとその父親との確執や、誰かに必要とされたいとだけ強く望む敵役など、さらに登場させて大丈夫なのか?そんな心配をよそに、どの伏線を回収してどの伏線を回収していないのか観客が忘れてしまうような、透明化された「複雑さ」をもって映画は進む。こう書いていくとこの作品を批判しているみたいだが、これはこれで面白いのだ。再度たとえるなら、名プレー珍プレー集的な面白さというか。ゲーム全体から切り離された、各プレイヤーが各個の状況にどう対応したかが延々繰り広げられるような。スパイダーマンの真価が、彼のリップサービスやマイクパフォーマンスにあることとか(いかに悲しくても、ちゃんと観客を盛り上げる)、デイン・デハーンの美青年吸血鬼的なキャラ作りとか、作品全体に貢献しているのかどうかよくわからない細部に魅せられた。
それにしてもなぜ、ピーターとハリーとグウェンは三角関係にならないのか?彼氏とうまくいってないときに、彼氏の幼馴染みで大富豪(しかも会社の上司)が出てきたら、普通一回くらいデートとかするんじゃないのか?そんな予測とは裏腹に、グウェンはバッサリ切り捨ててしまう『アメイジング2』はやっぱり「複雑」なのである。

  • 全国ロードショー中